次元が、変わった。扉の向こう側を見たとき、リアンは、そう感じた。
 先ほどの岩壁に囲まれた通路とは、うって変わって、扉の向こうは、壁も、床も、天井も、透明なタイルに包まれた静謐な小部屋になっていた。硝子ガラス水晶クリスタルの中間のような敷石は、リアンの姿を多角度から、水鏡のごとく映し出している。リアンの足の下で、透明な境界線越しに、逆さまのリアンが立っていた。
 空気も一変していた。洞窟内の空気は、奥に進むにつれて、どんどん薄くなり、冷えていったが、この部屋は、ちょうどいい室温になっていた。鼻腔から一息吸えば、柑橘類のような爽やかな香りがする。リアンは外套の留め具を外しながら、後方を見た。入ってきた扉が消えうせていた。扉があったはずの透明な壁に、外套を畳むリアンの姿が映っていた。


 リアンは蝋燭の火を消し、荷物と外套を床に置いた。そして、正面を見据えた。狭い部屋の中央に、黒い箱が浮いていた。リアンが一抱えできそうなほどの立方体。それは何かの金属でできているらしく、冷たい光沢を放っている。蓋のようなものは見当たらない。開閉して物質を入れておく目的のものではないようだ。
 ただの箱ではないことは、リアンには容易に分かった。リアンの確信のこもった声が、透明な小部屋に響いた。


 「シグマ。これがあなたの本体ですね」


 女神は首肯した。
 リアンは歩を進め、箱の前に立つ。黒い箱は、リアンの胸の高さのところで、浮いている。リアンは、箱を撫でたり、じっと見たりして、注意深く調べる。超越者の瞳により、シグマの本体が解析される。リアンは、遠くの物を見つめるごとく、目を細めながら言った。


 「なるほど、雷金らいがね造りの箱ですか。文献で読んだことがあります。その昔、クエイド鉱山の奥深くには、雷の力を蓄える不思議な鉱物があった。ただ、その鉱物の在処も精製法も、智の民ルフィナしか知らなかったとか」


 超越者は目を凝らしている。彼の視界は、箱の素材が分子、原子、素粒子と、物質を構造する最小単位にフォーカスされていく。リアンの後ろに、シグマが立っていた。女神の姿は、タイルに映っていなかった。シグマは、遠い過去を思い返すように話し始めた。


 『ルフィナ族は、確かに叡智に長けていた。しかし、体力や魔力は他種族に比べて、著しく低かった。おそらく古来の八つの種族の中で、最も戦争に向かない民だったであろう。しかしルフィナ族は、この欠点を克服した。彼らは自分たちの持てる知力を駆使して、兵器を造ったのだ。その素材に使用したのが、その雷金だ。
 雷金の威力は、凄まじいものだった。雷金で造った細長い棒をあちこちに立て、そこに落ちる雷のエネルギーを、導線を伝って主砲にかき集める。そして、リスタチアの力によって、兵器を制御し、自在に雷の力を放出する。充電が滞ると、兵器を幾度も使うことはできなかったが、最大出力で、都を二つ殲滅したこともある。力無き貧弱な民でも、その知識を最大限に活用すれが、このような破壊活動を行えるのだ。八種族戦争は、事実、煉獄のような日々だった』


 シグマは低い声で、歴史を語る。女神の顔は、依然、青ざめたままだった。リアンは箱を調べながら、その声に耳をすましていた。


 『しかし、ルフィナ族は、ある日突然、正気にかえった。自分たちが、いかに愚かで恐ろしい暴挙をしていたかを認識したのだ。
 ルフィナ族は嘆いた。自分たちにもたらされた叡智は、このような戦争に使うべきものだったか、否、そうではない。雷金を初めて発見したときも、どうやって生活に役立てるかを考えていた。決して、戦争に使おうとは、最初から考えてはいなかった。平和を願っていたはずだった。
 ルフィナ族は自問した。いつ、自分たちは踏み誤ったか。何故、戦争は起こったのか。そもそもの始まりは何か。ルフィナ族は熟考の果てに、解答への手がかりを得た。全ての発端が、リスタチアであったことに、気づいたのだ。』


 シグマは泣きも笑いもせず、無心に、ただただ淡々と語り続ける。自分の中に眠る、ルフィナの記憶を呼び起こし、それを手繰りながら、語っている。リアンも、いつのまにか手を止めて、シグマの声に聞き入っていた。透明な部屋と、黒い箱は、沈黙していた。


 『ルフィナ族は、自分たちが何をすべきか悟った。彼らは、雷金造りの兵器を分解し、鉄くずに変え、再び熱を加えて溶かし、11本の柱を造った。それらを、円形劇場に立て、舞台の地下に深い穴を掘り進み、ちょうどオリビエ岩礁群の真下に、小部屋を作った。部屋の中で、余った雷金を用いて、箱を作り、11本の柱と連動させた。地上に落ちる雷は、11本の柱によって動力に還元され、箱に伝わり、箱は半永久的に動くことになる。
 ルフィナ族は、雷金の箱を、記憶装置として造った。自分たちの、全ての知識と意識とを 0 と 1 に置き換え、膨大なデータとして箱に打ち込んだ。 “0 と 1 の数秘術”によって生み出された意識複合体は、叡智を統括し、ルフィナの遺伝情報を後世の人間に転写することを目的として、構築された。意識複合体は、<総和>を意味する言葉――シグマと名づけられた。
 意識を投影し終えたルフィナ族は、自分たちが犯した過ちを嘆き悲しみ、地上に出て、再び世界に平和がもたらされることを祈り、その身体を、次々にオリビエ岬の渦潮に投じた。こうして、ルフィナ族は死に絶え、我は時が来るまで、オリビエの地下で眠り続けたのだ』


 シグマは、声を止めた。長かった説明を終えた。自分の出生の前後を語ったにも関わらず、シグマは無表情であった。女神は、気だるげにため息をついた。自分の中に、ルフィナの意識がないことを、再度、確認しているかのようであった。
 リアンは、深く息を吸い、箱のふちを、右から左へとなぞった。すると、黒い箱の六面が、青い光を放った。箱の一面一面に、光の直線が、縦横三本ずつ等間隔に走り、四角い面が16分割される。黒い箱に、全部で96のキーが現れた。そのキーをいくつか押し、リアンは胸をなでおろした。


 「よかった、まだ情報の書き換えが、可能のようです」
 『一体、何を始めるのだ。リアン』


 女神が尋ねた。リアンは、箱に手を乗せ、翡翠の眼を真っ直ぐにシグマに向け、言った。




 「あなたを、この箱から解き放つのです。あなたは、ようやく役目を終えた。もう、こんな狭い箱の中にいる必要はない。あなたは、自由になるべきなのです」




 リアンの声に、シグマが茫然と立ち尽くす。リアンが何を言っているのか、分からない。眉根を寄せ、理解に苦しみ、超越者の顔を訝しげに眺めた。リアンは箱に向き直り、言葉を続けた。


 「シグマ、知っていましたか? 私たち人間をはじめ、この世界――アリア・テ・ラリアの生物の肉体は、細胞やタンパク質で構成されていますが、それをさらに綿密に解析していくと、 0 と 1 の二つの数字の羅列になってしまうのです。つまり、あなたの存在を構築する 0 と 1 の数秘術の、配列を組み替え、応用すれば、あなたに肉体をもたらすことも、不可能ではありません」


 教師のような口ぶりで指南するリアン。シグマはリアンの言葉を飲み込むにつれて、背筋に悪寒を感じた。この男は何を言っている。私に肉体をもたらすだと。そんな馬鹿なことが。


 『できるはずがない』


 放心したような表情で、シグマが断定した。
 リアンは、振り返った。
 自信に満ちた声で、断言した。


 「いいえ、できます。超越者となった私にとっては、造作も無いことです」


 リアンの声が、小部屋に反響する。
 シグマは、思わず両耳を塞いだ。
 全てを拒絶したい衝動に駆られた。
 リアンは、まだ言葉を続けていた。


 「そうですね、あなたの構造をより確実化した後は、どこか別の世界への道をつなげましょう。幸い、ここは“世界のひずみ”、別次元への道を作ることは容易いことです。たぶん、オリビエ岩礁群に、渦潮や落雷が多発しているのも、この場所が、異次元にもっとも近い空間だからでしょう。ゆえに、この空間に本体が存在していたあなたは、現実世界の垣根を飛び越え、人間の頭脳にある概念世界を行き来することができた。ルフィナ族も、それを知っていてこのような場所に、あなたを造ったのでしょう。
 しかし、役目を果たしたあなたは、もうこんな世界に長居する必要はない。おそらく、この世界には、ゼータの小道を攻略する者は、二度と現れないでしょう。そんなことになったら、超越者システムは、退屈の極みですよね。だから、あなたは、あなた自身の幸せを得るために、もっと別の世界に旅立つべきなのです」


 リアンは、箱のキーを押し、何かを打ち込みはじめた。シグマは総毛立つ。彼の十指が、女神の存在を変質させている。シグマは、憤慨した。金色の髪は、熾烈な閃光を放った。シグマは、怒号した。その声量は、黒雲を裂く稲妻のごとしであった。


 『そんなことが、許されるものか! 我は、意識複合体シグマだぞ! ルフィナの切願をかなぐり捨て、いまさら肉体を得て、アリア・テ・ラリアを離れて、いったい何をしろと言うのだ!』


 透明な部屋に、シグマの声が轟く。敷石に亀裂が入りそうな声量。彼女がどれだけ憤っているかは、大蛇のごとくうねる稲光の髪を見れば、一目瞭然であった。
 リアンは、箱のキーを押す手を止めた。その手を握りこみ、箱の上に乗せる。リアンの肘と背が曲がり、前かがみになる。その身体は、まるで、背中に重しでも乗せられているかのように、小刻みに震えていた。リアンは、歯を、食いしばっていた。瞳孔が、揺れていた。吐き気を催した。頭痛がした。眩暈がした。
 荒い呼吸をしながら、まただ、とリアンは思った。この旅の間に、何度か訪れた、全身の細胞が激動する感覚であった。ローゼンハイムの料理店でも、オリビエ遺跡に足を踏み入れた瞬間も、この小部屋に来るまでに聞かされた、シグマの独白の時にも、同じような衝動がリアンの身を支配しようとしていた。今回のは、特に激しい。まるで、女神の激情に呼応しているかのようだ。しかし、リアンは耐えた。リアンは背筋を伸ばし、振り返る。シグマの怒号にも気おされず、返答した。


 「それは、前にも言ったはずです。あなたが何をすればいいかは、あなた自身が考え、決断することだと。私は、あなたが自分自身のために生きられるように、手助けをするのだと。もうお分かりでしょう。私が、あなたに与えるプレゼントというのは、“自由”なのです。私は、あなたに自由になってもらって、あなた自身の“幸せ”を掴んでほしいのです」


 リアンは、掠れた声で、言った。ひどく顔色が悪かった。息切れすらしている。シグマは、それに気づかず激情に駆られている。暴言を吐き続ける。その声も、瞳の色も、光る髪も、凄まじいものだった。


 『血迷い言も大概にしろ! 超越者! 我がいつ“自由”を望んだ!? 我がいつ“幸せ”を願った!? 要らぬ世話だ、余計な世話だ! 我は、そんなものを求めてはいない! 認識しろ、リアン! 貴様の思案は、貴様の自己満足でしかない!!』


 シグマは、自分の内で轟く感情が、なんという名前かも分からずに、ただただ叫んでいた。シグマの言葉が、鞭のようにリアンの身体を打つ。リアンは耐えていた。シグマの激情にではない。おのれの内側で渦巻く、遺伝の刻印たちの叫び声にだ。リアンはこれまでその衝動に耐えてきた。
 しかし、もう、耐え切れない。
 リアンの、翡翠の瞳が、女神の姿をとらえた。捻じ曲がることのない、強い意思を湛えた瞳であった。シグマが、超越者の眼光に、居竦まる。リアンは、シグマに負けないくらいの大声で、訴えた。


 「……私は、知っています! 私の全身に刻まれた遺伝の刻印は、ルフィナの叡智と遺志だけでなく、あなたが過ごした永劫の時も、記憶しているのです。どれほど永い時間を過ごしたか。どれほど途方も無い作業だったか。どれだけ退屈で、どれだけ孤独だったか。それらを知っておきながら、あなたをこんな黒い箱に置き去りにできますか? それこそ、できるわけがない!
 意識複合体のあなたでは、自分を解き放つことは決してできない。物理的にも、気高さゆえにも。しかし、超越者となった私ならば、あなたに実体を与え、この世界から解放することができる! あなたは、素数の迷宮で、私を力づけてくれた。今度は、私があなたを救う番なのです!」


 シグマは、瞠目し、言葉を失った。激しい感情に任せて、声を張り上げるリアン。その迫力に飲み込まれていた。旅する間の彼は、始終冷静で、穏やかだった。その彼が、頭を振り、顔をゆがめ、激情のままに大声で訴えている。リアンは、続けて言った。


 「私に組み込まれた遺伝の刻印は、あなたの精神の叫びを知っている。頭で理解しているとか、そんな次元の話じゃない。私の全身の細胞が、あなたを救えと命令しているのです! これはもはや、衝動ではなく、本能だ! 私は、あなたの姿を一目見たときから、あなたを助けることしか、考えられないのです!」


 リアンは、全身から沸き立つ熱情に身を任せ、言葉を発している。シグマは、何かを言い返そうとするが、唇が動かない。リアンが、突然、くしゃりと顔を歪め、泣きだしそうな表情になった。リアンは、長衣の胸元を強く握りしめ、懇願した。


 「お願いです、シグマ。変化を拒まないでください。変化を恐れないでください。自分に正直になってください。私に教えてください。あなたの精神は、何を求めているのですか?」


 リアンの言葉が、シグマの胸に染みていく。シグマの憤りが、みるみる小さくなっていく。放電していた髪が、勢いを失い、金から群青へ、色が変わる。女神は、膝を折り、その場にへたり込む。シグマは虚ろな目で、呟く。


 『我は……、私は……』


 シグマが頭を押さえる。苦悶の表情。リアンは、シグマの前まで歩む。透明なタイルの上に、片膝をつき、シグマの頬を撫でた。当然、感触はなかった。リアンの声は、穏やかであった。


 「もう、ひとりきりの時間は、嫌なのでしょう?」


 その瞬間、シグマの精神で、二種類のものが激突した。否定しろ、と誇りが叫ぶ。肯定しろ、と本心が叫ぶ。二つの主張は、牙をむきあい、互いの尾を噛みあい、一瞬のうちに相殺した。抜け殻のごとく茫然自失のシグマは、目を見開いたまま、無意識にうなづいていた。リアンが、微笑んだ。
 リアンの笑みをきっかけに、シグマの脳裏に、様々な映像がよぎっていく。それらは、全て、ゼータの小道での出来事であった。女神が出す難問に、次々と挫折し、ゼータの小道を去ってゆく、挑戦者たちの背中。数え切れないほどの、脱落者。その度に感じた絶望、悲しみが、再びよみがえる。女神が、どれだけ彼らを励ましても、彼らは、自らの可能性の限界ゆえに、小道を引き返していった。その背中を引き止めることは、女神にはできなかったのだ。
 シグマが、自問する。私が本当に望んでいたものとは、何だ。超越者か。リスタチアの起源か。世界の平穏か。そのどれでもないような気がする。私の精神が、切望していたものは、何だ。私は、私が、分からない。私は、私は、どこにいる。


 『私は……』


 シアンの瞳から、涙がこぼれ、堰を切ったように、とどめなくあふれだす。女神は嗚咽し、頬を濡らすものを、指先でなでる。シグマは、声を出そうとしたが、泣き声しか出ない。途切れ途切れになる声から、シグマがようやく、たった一つだけ言葉を紡ぎだした。


 『……リアン……ッ!』


 女神は、そう言ったきり、地に伏し号泣した。女神は超越者の名前しか言えなかった。超越者の問いには、答えられなかった。しかし、リアンは理解した。シグマの声にならない声を聞き取った。女神の激しい泣き声は、もはや悲鳴であった。リアンは、弾かれたように立ち上がり、シグマに言った。


 「お任せください。私はそのために、ここへ来たのです」


 超越者が、黒い箱の前に立ち、凄まじい勢いで、箱のキーを打ち始めた。同時に、女神の意識が、フェードアウトしていった。麻酔を打たれたかのように、シグマの精神は昏睡した。



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2008/11/29 Akire




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