シグマは両目を見開いたまま、透明な敷石の上に、横たわっていた。
 細い唇は半開きで、涙に濡れた頬もそのままだ。白いローブには皺が寄り、髪が放つ閃光も消えうせている。髪の色は、金から灰に変わっていた。糸の切れた繰り人形のように、指先一本動かない。人造女神は、その機能の9割半を人為的に停止させられていた。
 リアンが、倒れ伏したシグマを一瞥した。シグマを虚像から実体に変える作業をする間は、眠っていてもらうことにした。リアンは超高速で、黒い箱をタイプする。いくつものキーを同時に押したり、右から左へ順々に押したり、箱を回転させて別の面のキーも同時に打つ。リアンは、96のキーを駆使して、黒い箱に命令を与えていた。
 黒い箱には、画面も音響装置もついていないが、超越者には、箱の内部でなにが起きているのか理解できる。雷金の箱に、新たに構築されていく数列を、リアンは目でなく脳で見ていた。金属の壁越しに、数字の羅列が、網膜でなく、視神経に直接転写されていた。リアンは、眉間に皺をよせ、目を細めながら、黒い箱を見つめていた。と、リアンが、唐突に語り始めた。


 「シグマ。まず私は、あなたに謝らなければなりません。これから語ることは、意識のあるあなたには、決して言えないことばかりです。もし起きているあなたに言ったら、あなたは確実に憤慨し、きっと手を付けられない状況になることでしょう。ゆえに、私が、独自の判断で、これを遂行することをお許しください。こうすることが、あなたのためにも、私自身のためにもなると思ったのです」


 リアンは、指を動かしながら、一時的に深い眠りについているシグマに、語りかけた。いま、シグマの機能は大幅に強制停止しているが、音を聞き、それを記憶する機能は遮断していないただ、考える力と行動する力を制限されているだけだ。そしてリアンは、これから語る言葉の記憶を、しばし封印し、時間が経ってから、蘇るように設定した。ちょうど、この世界を離れ、別の世界に着く頃に。リアンの、言葉が続く。


 「私が、あなたを別世界に送る本当の理由を、お教えします。この世界でのあなたの役目が果たされたというのも、理由の一つですが、それ以上に、このアリア・テ・ラリアには、危惧すべきことがあるのです。
 ゼータの小道の七問目を解いた時、この世界の膨大な設計図が、私の脳裏に流れ込み、私は超越者となりました。その設計図を見た時、私はこの世界の奥底にあった、とても小さな“ほころび”を発見したのです。叡智の封印が解かれた私は、そのほころびが、この先の世界に、どのような影響を与えるのかを、予見することができました。私は、自分の頭の内側で、少し先のアリア・テ・ラリアを超越理論によって思い描きました。
 それはもう、目を覆いたくなるような凄惨な状況でした。頭の中のシュミレーションにも関わらず、後の世の混乱と叫喚と怒号と絶望は、あまりに凄まじく、私の頭脳を内側から貫かんばかりでした。そして、世界の重大な欠陥のなかに、リスタチアの影が見えたのです」


 リアンがため息をつく。世界の行く先を憂うような表情だった。リアンの右手は、女神に肉体を与えるため、数字の組み換えを行っている。しかし、左手は、別の作業をしていた。異世界への道を繋げる入り口を作っているのだ。
 リアンは、しばし黙っていた。この先の言葉を、言うか言わないか、迷っていた。しかし、決心した。自分が見たことと考えたことを、ありのまま伝えることにした。


 「――まもなく、この世界に、大いなる絶望が訪れます。小さな綻びは、いずれ人々の負の感情を飲み込み肥大化し、平和の時が終わりを告げ、再び、争いが世を覆い始める。やがて、ほんの一握りの人間の、当惑が、葛藤が、盲目なる強き意思と、それによる決定が、世界中を巻き込み、破壊と憤怒と嘆きを生む。さらに悲しむべきことに、予見した世界では、あなたが築きあげた超越者の系譜も、完全に消滅していたのです。すなわち、もう誰にも世界のうねりを、止めることができなくなるのです」


 リアンは語り続ける。その間、ずっと、黒い箱のキーを打ち続けている。雷の力を動力にする箱は、しだいに熱を帯びてきた。二種の作業を平行したこと、とてつもない量の数字を操作し続けたことによる弊害かもしれない。シグマの実体は、着実に構成されつつあった。透明な小部屋の壁の一部が、ねじれて扉のようなものを形作る。二つの作業は、終焉に差し掛かっていた。


 「私は嫌なのです。あなたが見守り続けた世界が、こんなにも劣悪に変化してしまう様子を、絶対にあなたに見てもらいたくない。きっと、あなたが一番、この世界で、嘆き悲しむことになる。だから、私はこの世界の酷なる未来を見せないために、あなたを遠い遠い別の世界に、送ってしまおうと考えたのです。
 こんな勝手な判断を、気高きあなたが許してくれるはずないですよね。だから、あなたにはずっと黙っていたのです。そして、黙ってそれを遂行することにしたのです。ずるい私を許してください。卑怯者の私を罵ってください。しかし、これだけは、覚えていてください。私はあなたに、悲しんでほしくない。ただただ、あなたに幸せになってもらいたい。そう考えて行動した結果がこれなのです」


 と、リアンが、唇と指を止めた。超越者の瞳の奥で、数列が秩序正しく並び、あるべき位置に留まっている。シグマの実体が完成したのだ。リアンが、後ろを振り返った。横たわるシグマは、もはや意識体ではなく、生身の身体であった。その後ろにある、異世界への扉も完成していた。
 リアンは、箱に手を添えたまま、少し思いにふけった。そして、口の中で、小さな声で、呟いた。


 「でも、本当は、あなたとずっと一緒に過ごしたかったなぁ……


 リアンは、意を決して、箱の一番右下のキーを一回タイプした。シグマの精神を、箱のなかから実体へ、アップロードを開始した。リアンがまぶたを閉じると、おびただしい数字が、シグマの身体へと注ぎ込まれるのが見えた。








 音が聞こえる。美しき数字が渦を巻き、一本の激流となって、内から外へ、外から新たなる内へ、流れ込む。素数の不規則なワルツが聞こえる。完全数の秩序正しきパレードが聞こえる。二進数のデュオが聞こえる。なんて美しい世界。できることならずっとこのままで。
 突如、数字の動きが止まった。数字の群れが、一列に整列する。やがて、数字は総和され、ある一つの意識を形成する。


 「シグマ」


 声が聞こえる。その言葉の意を理解した途端、女神の意識が覚醒した。目覚めると同時に、五感が一斉に活動を始めた。柑橘類の香りを認識した。敷石の硬く滑らかな感触を認識した。吸い込んだ空気の味を認識した。リアンの声を認識した。リアンの間近に迫る顔を認識した。
 五感から受ける情報量の多さに、シグマが眩暈を覚えた。そして、少し遅れて、現状把握が開始される。透明なタイルに横たわる自身。目覚めた自分。完成された実体。心配そうに顔を覗き込んでくる超越者。彼の息づかいが頬に当たるほどの、距離感の短さ。シグマは無意識のうちに、上半身を起こし、右手をふりあげた。そして、その右手は、


 「……、この無礼者っ!」


 女神の一喝とともに振り下ろされ、超越者の顔面にクリーンヒットした。片膝をついていたリアンは、うめき声を上げて床に転げる。頬を押さえながら、リアンが弱弱しい声で言った。


 「いきなり何するんですか、シグマ。すごく痛かったですよ」
 「それはこっちの台詞だ! 顔が近すぎだ、馬鹿者! 礼儀をわきまえろ、この大馬鹿者!」
 「もしかして、照れてるんですか? かわいい人ですねぇ」
 「照れてない! 断じて照れてなどない!」


 リアンは頬の疼痛に、涙目になりながらも、笑っていた。シグマは、超越者の言葉を否定するものの、その顔は真っ赤に染まっており、説得力の欠片も無い。リアンは、ふ、と息で笑み、シグマに言った。


 「しかし、起きて早々、それだけ動けるとは、さすが女神シグマですね」


 リアンに言われて、シグマは我に返る。自分の顔や腕を触ったり、放電する髪を撫でたり、ローブの裾をつかんでみたりと、自分の感触を確かめる。胸から響く鼓動や、肌の下を走る脈動に、シグマは聞き入る。超越者の頬を打った右手が、じんじんと脈に合わせて痛みだす。神経を伝わる感覚に、シグマが感動を覚える。ぼんやりと、シグマが呟いた。


 「私は、身体を手に入れたのか……」


 どこか現実味が感じられない声だった。戸惑いすら感じているようにも、聞こえる。リアンが微笑み、シグマの手に自分の手を重ねて、自分の頬にシグマの手を当てた。手のひらから伝わる、自分とは違う肌の感触とぬくもりに、シグマの身体が強張った。リアンが、優しげな声で言う。


 「そう、あなたは身体を手に入れた。こうして、人と触れ合うことも、私以外の人の目に触れることも、頭脳を介さず人と話すこともできるようになった。あなたは、黒い箱から解放され、独立した身体と意識を手に入れた。あなたは、ルフィナ族の意識と宿命から、完全に解き放たれたのです」


 シグマは、素直にリアンの言葉を聞いていた。しかし、最後の言葉を聞くと、眉根をよせ、俯いてしまう。暗い色の瞳に、リアンは、先ほどの号泣するシグマの姿を思い出す。リアンは、シグマの頬に反対の手を添える。空気ではなく、ぬくもりをとらえた。シグマに、自分の意見を聞かせた。


 「シグマ。ルフィナ族の意思が、あなたから消えたのは、仕方が無かったことだと思うんです。人間の意識とは、不安定で、儚くて、風に流される雲のように、形を変え続ける。知識や情報が、千年万年経とうとも不変であるのに対し、変化の絶えない人間の意識が、永久に存続し続けることは、十中八九、不可能な話でしょう。
 きっとあなたは、すでにルフィナの意識複合体ではないのです。アリア・テ・ラリアの平穏を願い、超越者を生み出すため、人々に遺伝の刻印を施してきた、女神シグマなのです。そして、あなたの役目は終わり、私に託された使命が始まる。この世界での、あなたの存在意義は、達成されたと断言してもいいでしょう。
 しかし、シグマ。何もすることが無くなった世界で、永遠を過ごすことは、ひどく退屈で、酷なことだと思いませんか? だから、あなたのために、異世界への道を作ったのです」


 リアンが、透明な壁に現れた、銀色の扉を指差した。銀色の扉は、少し透けていて、扉の向こうに、数字が並んで道を作っている。シグマは、その数字の配列に見覚えがあった。


 「……ゼータの小道?」


 リアンは、満足げに頷いた。


 「そう。黒い箱を操作して、世界のひずみであるこの場所と、ゼータの小道とをつなげたのです。数学の概念が、この世界の他にも存在しているという過程を元に、こことは別の世界へ小道は続いているはずです。
 あなたの実体を構築しながら、私は超越者の目で、この空間の先にある、別次元を眺めていました。あなたが退屈しないような、素敵な世界を探していたのです。それも、できるかぎり賑やかで、楽しくて、面白くて、もう毎日お祭りしていて、素敵な音楽があふれていて、何よりこの世界より、少しでも平和な世界を、探していたのです。そして、私はその理想的な世界を見つけました。そこは、音の神が統治する世界だそうですよ。
 さあ、準備は整っています。旅立ってください。その世界は、とても楽しいはずです」


 リアンが、シグマの手をとり、立ちあがるのを手助けする。シグマは、リアンの手をつかんで離さず、力をこめて立ち上がる。両足が重力になれず、足の裏が床についている感触が、なんとも不思議だった。リアンの助けを借りながら、一歩一歩、透明なタイルを踏みしめる。そして、二人は、扉の前に立った。シグマは、扉を見つめ、隣に立つリアンに尋ねた。


 「本当に、いいのか……?」


 ひどく抽象的な問いであった。しかし、超越者には、その真意を汲み取ることができた。リアンが、笑みながら答える。


 「ええ、大丈夫です。私の身体には、これからすべきことが、全て刻み込まれています。超越理論の扱い方も、この旅で多く学びました。あなたを見送った後、私は、ここから東に位置する空舟の遺跡へ向かいます。リスタチアの起源は、必ず私がつきとめてみせます。どうか心配なさらずに、あなたはあなたの道を歩んでください」


 胸を張って、リアンは言った。シグマの目線は、床に落ちている。何かをためらうかのように、きつく握った拳が震えている。扉へのもう一歩が踏み出せずにいる。この状況で、いまだにプライドが、彼女の心を離さずにいるらしい。
 リアンは、微笑しながら、ため息をついた。本当にこの人は意地っ張りだな、と胸の中でぼやいた。しかし、そんな彼女の一面を、好いていることもまた事実であって。リアンは、「シグマ」と短く呼びかけた。シグマが、足元に向けていた視線を、隣に立つ超越者へと移した途端、



 リアンが、ふわりと、シグマを抱きしめた。



 女神の思考が完全に停止した。己の体に触れる、リアンの体温を認識するや否や、一気に顔が熱くなった。鼓動がうるさい。耳の奥で、自身の血流が脈打っている。シグマは、瞬時に迷った。先ほどのように、張り倒そうか、突き倒そうか、蹴り倒そうか、それとも……。
 シグマは、自分の肩口から、リアンの声を聞いた。肌を直接伝わる声に、戦慄にも似た感覚を覚えた。リアンは言った。


 「シグマ、私は感謝しています。
 あなたのおかげで、私は美しき数字に心から夢中になり、ゼータの小道を踏破し、超越者の知識を得ました。
 私は、世界を構築する大いなる知恵を、深い知識を得られたことを、感慨深く思っています。しかし、世界中のどの格別な知識よりも、あなたと過ごした数日間の記憶に、勝るものはありません。
 私は、あなたに会えて、本当に幸せです。だから、あなたも、  」


 リアンがシグマを抱きしめたまま、扉の取っ手をつかみ、扉を開いた。そして、扉の向こうに、シグマの体を押した。シグマの足が、数字の道に触れた瞬間、数字が一斉に輝き始める。平らな道だった数字が、浮き上がり、渦を巻き、シグマの体を取り囲む。シグマが、リアンの名を叫ぶ。リアンは、穏やかな表情で言った。


 「どうか、どうか、お幸せに」


 数字の激流が勢いを増す。シグマは、認識した。これが最後だと。別れなのだと。そう思った刹那、シグマの胸が急に苦しくなる。呼吸すら痛い。何故か、嫌だ、と思った。リアンと離れたくないと思った。その感情がどこから来るのか、シグマには分からなかった。シグマは、思わず手を伸ばし、夢中で叫んだ。


 「リアン! もし、お前の心が折れそうになったときは、ゼータの小道に来るといい! 私は、いつの日も、必ず、待っているから!」


 女神の切なる叫びに、超越者は答えなかった。答えたら、彼女のために抑えてきた感情の栓が、緩んでしまいそうだった。ただ、女神の名を、呼んだ。女神も、超越者の名を、呼んだ。数字は、完全にシグマの姿を包み込み、突如、流星のごとく、異次元の彼方へ飛び去った。しばらくして、次元をつなぐ扉も消滅した。


 女神シグマは、アリア・テ・ラリアから消えた。
 超越者リアンは、荷物をまとめ、空舟の遺跡へ向かった。


 リアンが、透明な小部屋を出た後、浮遊していた黒い箱は、床に落ちて硬い音を立てた。宿っていた意識複合体が消え、箱の機能も停止したのだ。雷金造りの箱の内部に、封印されていた宝玉リスタチアは、段々とその輝きを弱め、深き眠りについた。その後、透明な小部屋に訪れる者は、誰一人としていなかった。




 to be continued...









2008/12/06 Akire




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