超越者は、感涙した。星空の下に立ち並ぶ白石の建造物――オリビエ遺跡、ルフィナ族の古き都、その地に踏み入れた瞬間から、感極まって涙が止まらない。体の震えが止まらない。膝が崩れ落ちないように、両足で立っているのがやっとだった。リアンは涙を流しながら、両の眼を見開いて、目の前の光景を網膜に焼き付けていた。 雲間から漏れる月光が、大地と遺跡にそそがれる。吹きすさぶ涼風に、歴史の香りを感じる。地に横たわり瓦礫と化した石柱、彫刻細工が施された壁面、倒壊し、土台と規則正しく並んだ柱しか残されていない神殿の跡地、都の成れの果てのすき間を、夜風が通り抜けていく。風の音は、まるで人の声のように聞こえた。 壁のレリーフは、水がめを持った女や、剣をふるう戦士、馬車を繰る人、鍛冶仕事をする者、山羊、馬、リンゴの木、蝶などが彫られ、さながら広げられた絵巻物のようであった。そこに描かれた人々は、シグマが着ているようなローブを身にまとっていた。風の音が、レリーフの中で生きる人々の、歌声のように聞こえた。 『リアン』 女神の声が、遺跡の風を、凛と裂く。超越者の隣に、シグマが立っていた。その体は、夜の暗闇にも侵されない神々しい光を、微弱ながらもたたえている。リアンは、涙は拭かぬまま、「はい」と、短く返事した。声が少し裏返ったが、気にしなかった。女神は尋ねる。 『お前にも聞こえるか。オリビエの大地の歌声が』 「はい、鮮明に」 『お前にも見えるか。遺跡の、ルフィナの都の、本来の姿が』 「はい、目を閉じれば、はっきりと」 そういって、リアンはゆっくりと目を閉じる。念じれば、大地の記憶が、超越者の頭脳に、注入される。まぶたの裏には、荒れた遺跡ではなく、都の真の姿が映る。磨かれた大理石によって築かれた、神殿、城、石畳、階段、家屋が、厳かな月の光に照らされていた。 切り出された石は、隙間なく、緻密かつ綿密に、幾重にも重ねられ、数十本もの円柱が、レリーフが施された屋蓋を支えている。几帳面に整列した石畳、階段の石の一つ一つが丹念に磨き上げられている。 生半可な建築技術では、ここまでの芸当はできない。隙間なく石を積むには、技術はもちろん、高度な測量術と計算術が必要だし、都に点在するレリーフや神殿には、人間がもっとも美しいと感じる比率が用いられている。リアンの頭の中を、1:1.6180339887...と、途切れることない比率が駆け巡る。リアンは溜息した。この都のいたるところに、数秘術が息づいている。数百年前、ルフィナ族は、このオリビエの都で生活し、そして戦い、果てたのだ。リアンの閉じた目から、また一筋、涙がこぼれる。 壁のレリーフばかりでなく、都にはいくつもの彫像が立っている。いずれも、ルフィナの歴史に名を残す、偉人ばかりである。王、英雄、武将、賢者、技師。石でできた人体は、筋肉の隆起や、髪の一筋一筋も、細かに刻まれている。これらを見れば、おのずと分かる。ルフィナの種族は、手先が器用で、知識はもとより、技術力にもかなり長けていたのだろう。 リアンは目を開いた。荒廃した遺跡しか、目の前になかった。あんなにたくさんあった彫像も、ほとんどが瓦礫となり、片腕を失った王や、胴を両断された英雄、首の無い賢者が、石畳の上にうち伏している。まぶたの裏では、磨かれて輝いていた石畳が、現在ではくすみきって、いびつに開いた隙間から、そこかしこに野草が生えていた。リアンの足元にあるそれは、ちいさな青いツボミを、ほころばせていた。 リアンは、頭を垂れ、地上に咲く命を、見ていた。瞬きするたびに、涙が一粒一粒、石畳に落ち、染みていく。肩を上下させ、しゃくりあげ、超越者は、子供のように泣いていた。シグマが、リアンに言った。 『リアン、なぜ泣くのだ。お前が泣いても、失われた文明は、滅したルフィナ族は還ってこない』 「分かってます。理解してます。しかし、どうしても涙が止まらないのです」 リアンは、服の袖で、涙をぬぐう。けれども、あふれる雫は、とどまるところを知らない。濡れた顔面を、両腕でぬぐいながら、リアンは鼻をすすっていた。シグマは、尋ねた。 『超越者。お前はこの地に立って、何を感じた』 リアンは目元を手の甲で拭きながら、呼吸を整え、背筋を伸ばして立った。表情は、穏やかであった。だいぶ落ち着いた様子であった。しかし、依然、涙は止まらない。リアンは、それに構う様子もなく、心境を語りはじめる。 「そうですね。ひどく美しいところだと思います。建築物も彫像もレリーフもそうですが、何よりも、この地で生きた人々の精神が美しかった。建造物を見れば、彼らがどれだけ聡明で、感性豊かで、世界と祖先と知識を愛していたか、分かります。超越者の洞察力を使わなくても、一目瞭然でした。今は亡きルフィナ族の呼吸を、この地に立った瞬間、感じました。 そして、彼らの遺志と大いなる知恵は、遺伝情報として紡がれ、私の中で、その封印は解かれた。全身の細胞に組み込まれた彼らの遺志が、この大地に降り立った途端ざわめき始め、遺跡に踏み込んだ瞬間、私の精神を激しく揺さぶりました。いま、流れている涙は、たぶん、ルフィナの遺志がそうさせているんだと思います。私の精神は、彼らの遺志とともに、嘆いているのです」 リアンは静かに、手のひらで涙を拭いていた。シグマは、リアンを見ていた。実体の無い女神は、彼の涙をぬぐってやることも、肩を抱き寄せることも、はねた髪を撫でてやることもできない。シグマは、無意識に拳を握り締めた。唇を噛み締めていた。女神は、憤っていた。自身に実体の無いことへの憤りではない。シグマは、おのれの内面に憤りの矛先を向けていた。 何故だ。女神は問う。何故、我は泣けない。ルフィナ族の意識は、我の中にも確実にあるはずだ。しかし、どういうことだ。我は、このルフィナの都の凄惨たる荒れ様を見ても、何も感じない。否、何も感じないわけではない。確かにこの地は、ルフィナ族の生きた都だった。しかし我には、単なる通過点にしか見えない。我の中に住まう、ルフィナの意識よ。ここは、お前たちの故郷だぞ。お前たちの生きた場所だぞ。どうして、そんなに無感情でいられる。涙の一つでも零してみろ。泣き声の一つでもあげてみろ。何故、何も感じない。何故、我は、ルフィナの遺伝情報を継いだ、リアンのように泣くことができない。 我は――、私は、ルフィナでは無くなってしまったとでもいうのか。 「――シグマ?」 リアンの呼び声が、シグマの意識を打った。シグマが辺りを見回すと、そこは、すり鉢状の窪地に建てられた、劇場であった。屋根は無い。円い舞台と、客席しかない。二人は舞台の中心に立ち、彼らを 囲う傾斜には、階段状に連なった客席があった。そして、円形劇場をさらに取り囲むように、11本の黒い柱が立っていた。大理石が基本素材の都の中で、その黒い柱は妙に浮いていた。黒い柱は、石ではなく、金属でできているようであった。 シグマは思わず聞き返す。うろたえるような声音だった。 『おい、リアン。ここは、一体どこだ?』 「ここは都の中心に位置する円形劇場です。ここに来る前に見つけた石碑には、この舞台で行われた演目が書いてありました。《ユイルス・ラーケアス武勇劇》や《哲学者コールタセースの生涯》など、祖先の偉人のエピソードを、演劇にしていたようです。それにしても感慨深い。その昔、ルフィナ族があれらの客席を埋め尽くし、演劇を楽しんでいたと考えると、舞台に立つ両足が震えたつような、そんな気がしませんか?」 リアンが、シグマに話を振る。生き生きとした口調。流れ続けていた涙は、すでに止まったようだ。しかし、返ってきたのは沈黙。シグマは呆然とした様子で、劇場を見渡している。 「シグマ?」 『……ん、なんだ?』 「さっきから、ずっと上の空のようですが、大丈夫ですか? ここに来るまでの間なんか、心ここにあらずというか、さながら白昼夢を見ながら歩いているようでしたよ」 リアンは上目遣いで、シグマの様子をうかがう。眉尻の下がった眼差しに、シグマを気遣う、リアンの心持が表れていた。シグマは、顔には出さなかったものの、図星を突かれた思いだった。自分の顔を覗き込んでくる超越者から視線をはずし、左斜め下を見ながら、シグマは嘘を言った。 『ここはルフィナ族の古き都だ。我の中には、束ねられた彼らの意思が息づいている。それゆえに、彼らの想いと共に、故郷を歩いていれば、意識が虚ろになるのも仕方なかろう』 女神は、ひどく落ち着いた口調だった。言い切った後に、リアンを見つめ返した。その眼差しは『違うか、リアン?』と、同意を促しているようでもあった。自らの内側に隠れる動揺が、気づかれないように、虚勢を張っていた。 しかし、全てを見通す超越者の瞳は、ただただ真っ直ぐであった。女神は気おされる。リアンの視線が、肌を貫くように感じる。リアンは、一言だけいった。 「シグマ、 リアンに指摘され、シグマがおのれの髪を撫でた。普段は、稲光のごとし閃光を放つ、逆立つ髪が、今は、光はわずかで、力なく重力に従っている。髪の色も金色ではなく、真っ青になっていた。シグマは、瞳を閉じ、念じる。すぐさま、髪が放電し、元の色と状態にもどった。シグマは、内心舌打ちをした。迂闊であった。こんなつまらないことで、おのれの思考を気取られるとは。 リアンは、何も言わず、しゃがみこみ、足元の石畳を一枚持ち上げた。そこには、地下へと続く階段があった。リアンは、シグマの目を見て言った。 「この階段は、オリビエ岩礁群の海底空洞につながっています。この先に、あなたの本体があるはずです。そこに着くまでの間、あなたの本心を、詳しくお聞かせ願えませんでしょうか」 長く狭く暗い階段であった。リアンが蝋燭に火をともし、足元を照らしながら進んでいく。岩壁には水滴が付着し、ひどく湿気ていた。洞窟内は、地上よりも気温が下がっており、一段降りるごとに、空気がしんと冷えていく。リアンは、体温が逃れないように、外套の胸元を合わせた。リアンが片方の手を蝋燭にかざしているのは、灯火を風から守っているわけではなく、わずかな暖を取るためであった。階段を降りれば降りるほど、空気が薄くなるようで、リアンの呼吸も次第に、あえぐようなものとなっていた。その間、シグマは、ずっと語り続けていた。 『ひどく不安定なのだ。まるで、足場がずっと、ぐらついているような、奇妙な面持ちなのだ。 我は、超越者を生み出すために造られ、永い時間をかけてそれを遂行した。リスタチアの起源をつきとめるという使命は、超越者リアン――お前に完全に移行された。お前と行動している間、度々、我は考える機会があった。 超越者が生まれた今、我は何をすればいい。ルフィナ種は、この先、我に何を求めている。我は何のために存在している。我とは、何か。 それらを考えだすと、莫大な不安に打ちのめされそうになる。叡智の化身である我は、自身のことなど、理解しているはずだった。しかし、我は、この地に来て、己自身がひどく不確立な存在であることに気づいた』 女神のか細い声が、洞窟内に反響する。リアンは黙って聞いていた。背後から聞こえる声は、弱弱しく、迷子の少女のような、心細い旋律を奏でていた。女神の声には、感情がこもっていなかった。どこかに、置き去りにしてしまったのか。感じること、考えることに、疲れてしまったのか。階段はまだ続いている。女神の独白も続く。 『リアンよ、お前はこの地に立って、涙をこぼしたな。そして、おのれの中に息づくルフィナの遺志が、そうさせるのだと言ったな。しかし、我は泣けなかった。ルフィナ族の意識と全能力とを束ね集めた、意識複合体―― そういって、シグマは力なく自嘲する。まるで他人事のように、どうでもいいことのように、気だるい声で語るシグマ。蝋燭は半分になり、溶けた蝋の匂いが、洞穴にこもっていた。階段が終わり、その先に、平坦な小道が続いていた。シグマは話し続けた。 『もはや、我の中にルフィナの意識は無きに等しい。それならば、我は一体、何の、意識複合体なのか。我には、解が出せない。この状況が、げにも絶望的であることしか、認識できない。これ以上、思考したくないのだ。我は何者か。何のために、存在しているのか。使命を果たした今、我は何をすればいいのか。浮かび上がる疑問は膨大で、我という存在を、埋め尽くそうとしている。懐疑の袋小路に陥る。素数の迷宮など、可愛いくらいだ。 リアンは、歩き続けた。唇をきつく噛み、拳を握り締め、何かの衝動をこらえるように、足早に、小道を進んでいた。と、立ち止まった。目の前に、重々しい金属製の扉があった。リアンは確信した。この先に、意識複合体――シグマの本体がある。扉の取っ手を掴み、リアンが振り返る。その瞳に、強い意思が宿っていた。明瞭な声で、リアンが言った。 「シグマ、私は、あなたが何者かを存じていますよ。あなたは、気高いお方で、強情で、自分の弱さを隠すことに必死になって、常に強き者であろうとします。使命を果たす責任も、忍耐力もあり、自分にも他人にも厳しい人です。 けれど本当は、誰かと話すことが大好きで、好奇心が強くて、笑う姿は優雅で、すねる姿は愛らしくて、心配性で、優しくて、繊細な心の持ち主で、でも、そういう一面を見られるのが、恥ずかしくて、ついつい見栄や虚勢を張ろうとしてしまうんですよね」 シグマが顔をあげた。こいつは何を言っているんだ、と口にはしなかったが思った。なぜか、超越者の姿が、まぶしく見えたような気がした。リアンは、力強い声で言った。 「シグマ、あなたが、何者であり、何のために存在し、何をすればいいのかは、あなた自身が決めることです。そして私は、あなたがより確実な存在となるための、手助けをするために、この地へ来たのです。さあ、この先に、あなたの本体があります! あなたに恩返しをする時が、ようやく訪れたのです!」 リアンが、扉を押した。物々しい扉が、きしむような音を立て、ゆっくりと開いていった。 |