『おい、リアン。貴様、海を渡ったことはあるのか?』 海風を受けて、シグマが髪をかきあげながら問うた。すでに赤みを帯びた太陽が、水平線ぎりぎりまで迫ってくる時間。胃袋におさめた昼食も、ほぼ消化されきっている時間。リアンは、小さな帆船の上に立ち、風向きを読みながら、帆を繰っていた。リアンの背丈の二倍はある、三角の帆は、風を受け止め、いっぱいにふくらんでいる。白波を立てて、濃い色の海を裂きながら、進んでいく。波の音が、足元からじかに伝わる。シグマは、舟の後方に座り、波が帆船によって蹴散らされるのを見ていた。リアンは帆の向きを整えながら、問いに答えた。 「そうですね、子どもの頃、港町ロロの遊覧船に、二度ほど乗ったことがあります。行って帰ってくるだけのものでしたが、当時はとても感動しましたよ」 『ほう、そうか。ところで、リアン。貴様、舟を操縦したことはあるか?』 「いいえ、全然。漁師がやってるのを、見たことがあるだけです」 『リアン、一つ聞いていいか?』 「ええ、どうぞ」 『貴様は、愚者か?』 「突然、なんです。藪から棒に」 帆を張った竿を両手でつかみ、風を支えながら、超越者は女神に聞き返した。夕日は、海面に触れた。全てが、だいだい色に染まっている。波も雲も、舟も帆も、リアンの長衣も、リアンの髪も。しかし、シグマだけは相変わらず、陶器のように白い肌と、大理石のように輝くローブであった。シグマの姿は、リアンの脳に直接転写されているゆえ、外界の色や光には、影響されないのだ。シグマが語りかけた。ややしかめ面であった。 『要するに、お前の判断と行動に、不満があるのだ。お前は、オリビエへの旅路に、陸路でなく航路を選択しただろう。確かに、陸路を選べば、ずっと回り道をして、山脈や高山を越えることになる。少なくとも、成人の足で10日はかかる。それを見込んで、航路を近道として選んだのは合点がいく。オリビエは、ローゼンハイムの対岸にあるからな。 しかし、オリビエ岩礁群の近辺には、渦潮が多発しているのだ。地元の漁師でも、まず近寄らない場所へ、航海の経験もないお前は、単独で、自ら帆を繰っているのだ。あまりに、無謀。あまりに、楽観的。このような危険を冒すくらいなら、最初から陸路を選ぶほうが、賢明だったようにも思うぞ』 シグマが鋭利な刃物で突くように、指摘する。リアンは、苦笑する。超越者の、麦穂色の髪を、潮風が撫でていく。三角の帆と衣服の裾が、風にはためく音。リアンは答えた。 「そうですね。おっしゃるとおり、自分でも馬鹿だと思いますよ。確かに私は、船の舵どころか、小型帆船の帆すら操作したことのない若者でした。普通の人から見れば、危険極まりない航海です。しかし、現在、私は、超越者。世界の構造を理解した私は、波がどこへ向かっているか、風がどこへ吹こうとしているのか、脳で理解し、体で感じることができる。私は、海と風の意思に沿って、帆を繰ればいい。ただそれだけです」 言いながら、リアンは帆の向きを調節し、舟の針路を修正している。風は滞ることなく、海面を走っている。リアンは、初心者とは思えぬような手さばきで、舟を操っていた。漁師から借りた小型の帆船は、海を滑るように走っている。おそらく、世界の事象物象を、理解したゆえの技術だろう。小舟は、緋色に染まる海を、帆走していた。 しかし、時として、知識は技術に屈する。いくら海流の動きが読めても、舟の操縦を理解したとしても、実際に渦潮に遭ったとき、彼の未成熟の航海術で、それを越えることができるだろうか。経験も無く、技術も無く、知識だけで、人は旅をできるのだろうか。シグマの気がかりは、そこにあった。そして、再び疑問が浮き上がる。リアンがそこまでして、オリビエに向かう目的はなんなのか。 『リアン』 「はい」 『お前は、オリビエに行って、何をするつもりなのだ?』 「それは着いてからの、お楽しみです」 『その解答は、以前も聞いた。我が知りたいのは、さらに深い詳細だ』 「それを言ってしまったら、お楽しみも何もないじゃないですか」 『何がお楽しみだ、このうつけ者。お前の曖昧な言い方に、我がどれだけ焦らされてるのか、分かって言ってるのか』 リアンは、後方を振り返った。シグマは、片膝を立てて座り、その膝上に肘を乗せて、頬杖をついている。悪ぶる少年のような座り方。夕日の色に染まらないシアンの目は、左斜め下をじっと見つめている。少しむくれているようだった。 思わずリアンは、くちびるの両端をめいっぱい引いて笑んでしまう。なにやら微笑ましい気持ち。女神のふくれっ面とは、貴重なものを見れたようだ。リアンは、ひどく愉快になった。女神のこのような表情に、胸の高鳴りを覚える自分は、やや罰当たりかもしれない。と、必死で笑い声を喉の奥で殺しながら、リアンは思った。様子のおかしいリアンに向かって、シグマは言葉を投げかけた。 『どうした、リアン。質問に答えろ』 「ああ、はい。気分を害させてしまって、すみませんでした。私がどうして、オリビエに向かうかと言うと、あなたにプレゼントをしたいからです」 リアンの解答に、シグマは神妙な顔つきになる。シグマが視線で次の説明を促すと、リアンは言葉を付け足していった。 「要するに、お礼がしたいのです。私はあなたに何度も助けられた。あなたは私の恩人なのです。 ゼータの小道は、本当に険しい道でした。七つの問いは、幾度と無く私を悩ませ、私は何度も数式を投げ出したくなりました。飲むことも食べることも寝ることも忘れ、知力より、むしろ精神力を駆使して、私は難問に挑戦していたのです。 最後の問いでは、数式を書いても書いても終わりが見えず、しまいにはどんどん解答から離れて、私は迷いそうになりました。自分の持てる力を総動員しても、かなわないかもしれない。そう思った瞬間、素数の迷宮は肥大化し、私はどんどん小さくなり、決して越えられない壁が、立ちふさがったように感じました」 揺れる小舟の上で、リアンが訥々と言葉をたぐる。リアンは、舟の進路を向いており、シグマの位置からは彼の表情がわからない。しかし、帆竿を持つ手が、小刻みに震えている。波の音がする。夕陽は、すでにその身の半分を、海に沈めている。リアンが、話を続ける。 「ゼータの小道で、私は呆然と立ち尽くしました。行く先も、帰り道も、自分の立ち位置も、分からない。私は、完全な迷子になってしまったのです。数式を書く筆は止まり、頭を抱えて、机に突っ伏しました。大好きだった数字は、牙をむいて、私を飲み込もうとしている。恐ろしかった。ひどい眩暈すら感じました。これ以上続けたら、数が嫌いになるかもしれない、という危惧すらしました。 そんな時、声が聞こえたんです。高貴な笛の音のような、美しい声。私のことを、知的な 導かれし蝶、と呼ぶ声。その声は、道の途中で、幾度と無く難問を投げかけた声と、同じものでした。冷たく輝く声は、私の頭上へふりそそぎ、歩き疲れた私の精神に、染み入りました」 陶酔するように、目を閉じて、リアンは語る。頭の中で、あのときの声が再生される。 疲れたなら、休めばいい。迷ったなら、引き返せばいい。向こうの世界に還ることも、かまわない。私はずっとここにいる。知的な導かれし蝶よ。私はお前を信じて待っている。 その声が、リアンを導いた。リアンは、休むことも、引き返すこと、還ることも放棄し、果敢に難問に立ち向かった。数式の奥で待つ、声の主に会いたい。その一心が、リアンの活力となり、羽筆を持つ手を、奮い立たせた。そしてリアンは、見事に難問を解答し、超越者となり、シグマと出会った。 リアンは、目を開く。夕焼けがまぶしい。目を細めながら、リアンは言った。 「もしも、私が一人でゼータの小道にいたのなら、決して難問を解くことはできなかったでしょう。もしかしたら、数式を投げ出して、二度と数など見たくない心境になる可能性もありました。それほど、追い詰められていた。しかし、小道にあなたがいてくれた。あなたは、広大な小道の中で、難問という名の道しるべを提示し、私の進む先を教えてくれた。私が疲労したとき、その都度、私を励ましてくれた。 あなたは、私を支えてくれた存在。ゼータの小道を解けたのも、あなたのおかげです。だからこそ、恩返しをしたいのです。それが、あなたにプレゼントをしようと、考えた理由です。そして、そのために、オリビアへおもむき、あなたの本体を、見つけ出さなければならない」 そういって、リアンは、帆を大きく傾けた。舟が激しく揺れる。気がつけば、小舟のへさきが、渦潮に突っこんでいた。シグマは戦慄する。いつのまにか、オリビエの岬の、渦潮のエリアに入っていたのだ。 渦潮は、直径12メートルはある。それが鎖のように、海面に並び、オリビエへの侵入を防いでいる。 水がうごめく音。白波が渦を描き、水と水がぶつかる。波が拳のように、舟に殴りかかる。転倒するのも時間の問題かもしれない。シグマが、リアンの名を叫ぶ。リアンは、帆を支えながら、膝をつき、振り落とされないようにしている。 シグマは、戸惑いを感じていた。素数の女神は、焦燥にかられていた。やはり無理だったのだ。知識のみに頼った旅など、不可能なのだ。リアンは、ここで死ぬかもしれない。我に恩返しをするという名目で、リアンは海の藻屑になるのだ。なんたる悲劇。永い時間をかけて、ようやく羽化した超越者の系譜は、ここで絶たれてしまうのか。 シグマは、両手で頭を抱える。背筋が凍りつきそうな思いであった。失いたくなかった。リアンを、超越者を、リスタチアの起源を突き止める者を。何よりも、こんな窮地に立たされて、なんの手助けもできない自分自身が腹立たしかった。体が無いことを、心底恨めしく思った。自分で自分を殺めたくなるほどの憤り。しかし、超越者システムに、自壊プログラムは組み込まれてはいない。シグマは、白い歯を、噛み潰さんばかりに、食いしばっていた。歯列の隙間から漏れそうになる悲鳴を、必死で抑えていた。 舟は、大きく傾いていた。へさきは、30度ほど海面から持ち上がり、渦の中心に近づいている。リアンは、力を振り絞り、帆を立て直す。リアンは、頭の中で、渦潮から脱出する策を、巡らせる。舟は横からの衝撃に弱い。しかし、渦潮の中では、波は多方向から迫ってくる。導き出した解答は、ひどくシンプルだった。立ち止まらず、正面突破することだ。 リアンは、ロープで帆を固定し、舟に備えられた櫂を取り出した。力強い波に、櫂を刺しこみ、漕いでいく。腕ごともぎ取られそうな、激しい水力。力を抜いたら、櫂を飲みこまれそうになる。しかし、リアンは超越者だった。リアンは、海水の流れ、波の向き、強さを、一瞬で分析し、その隙をついて、櫂を差し込む。力加減が、波と相殺しないように、櫂を漕ぐ。少しでも焦ったり、躊躇でもしようものなら、舟は即座にバランスを崩し、波に飲み込まれるだろう。ひどく精神力を使う作業だ。しかし、一歩一歩、波になぶられながら、確実に渦を抜けていく。夕日が沈みきって、あたりが暗くなり始めるころ、リアンは渦潮を抜け出すことに成功した。 危険な区域を乗り切り、リアンは舟の上に大の字になって寝そべった。激しい脱力感。安心した途端、手足が震えだす。自分が死線を乗り越えたことを実感した。肺一杯に呼吸を繰り返すリアン。むさぼるように空気を飲み込む。空は夕日色から、暗がりの色に変わりつつある。星がまたたきはじめた。 シグマが、船上に立っていた。暗がりにも侵されない姿は、神々しい。リアンの顔を見下ろす瞳は、空色だった。ひどくか細い声で、シグマは言った。 『……お前は、救いようない愚か者だ』 「……存じています」 『いくら超越者といえど、お前の体は、紛れも無く人間だ。永久に存続する我と違い、お前は、死ぬ体を持っているのだ。お前の命など、しょせん、紙切れのように脆いのだ。なぜそれを自覚しない。なぜそれに見合った行動をしない。死ぐらい恐れろ、リアン。お前は、途方もない命知らずだ。この愚か者』 女神は、超越者をののしっていた。消え入りそうな声だった。震える声だった。リアンはため息をついて言った。どこか満足げな表情だった。 「心配させてしまって、すみません」 『そんなもの欠片もしていない。私は、お前の愚かさに呆れているだけだ』 「そうですか。ならば、そういうことにしておきましょう。しかし、あなたも大概強情ですね。怖い思いをしたのなら、悲鳴ぐらいあげたらいいじゃないですか」 『――我は、なにも、恐れてなどいない』 シグマは、自分の腕を掴んで言った。孤高の響きは、厳かに海面を叩いた。リアンは、シグマを見ていた。無論、彼女の真意を見透かしていた。ひどく恐ろしい思いをしていたのは、震える手を見れば分かる。当然、渦潮が怖かったわけではなかろう。もっと他の何かが、彼女の精神を蝕んでいたらしい。リアンは、一つの仮説を見出した。もしかしたら、彼女にとって自分の存在は、ひどく大きくなっているのかもしれない。リアンは上半身を起こした。話題を変えるため、彼方を指差して言った。 「シグマ、見てください。オリビアです」 リアンが指差した。船の向かう先は、ルフィナ族の都市の亡骸であった。夜空が迫っていた。 |