馬車を乗り継ぎ、リアンとシグマは、ローゼンハイムにたどり着いた。海に面した街は、潮風に満ちており、海鳥の輪唱が青空に響く。王都ノヴェリスタの近くにある港町ロロに比べると、それほど栄えてはいないものの、活気のある平和な街だった。
 街の港近くにある市場には、漁網からあがったばかりの魚介類が、敷物に並べられ、水槽や木箱に詰めこまれている。漁師と客の喧騒は、家屋の屋根を震わさんばかりの大音量。ときおり、おこぼれを狙った、腹ペコ野良猫の鳴き声が聞こえてくる。潮の匂いが、街道に敷かれた赤煉瓦に染み付いてた。


 リアンは、市場に面する料理店に立ち寄っていた。丸太を半分に切った看板には、『銀魚ぎんざかな』という店名の横に、波から跳ねる大魚が彫られていた。店内だけでなく、屋外のバルコニーにも白木のテーブルが並べられており、リアンは、入り口から離れた、店の壁沿いのテーブルに座っていた。
 まだ昼には早い時間なので、客は少ない。それに、市場のにぎやかな騒ぎ声のおかげで、リアンの声もかき消され、よほど近くにいなければ、その声は届かない。ゆえに、超越者は、素数の女神と、心置きなく対話することができた。(これまでの旅路で、リアンは、実体なき女神と路頭で会話してしまい、幾度か羞恥を味わっていた) 注文の品を待つ間、リアンはシグマに唐突に問いかけた。


 「ところで、シグマ。あなたには、帰る場所はないのですか?」
 『――とつぜん如何した、超越者。我の還る場所など、お前は既知のはずだぞ』
 「確かに、存じていますとも。あなたの本体は、オリビエの地下深くにあり、あなたの住処は、人間たちの精神に張り巡らされた、数という理念を認識する空間――そのはるか先にあると。いわば、あなたは、人間たちの脳の片隅にある概念世界に住み、そこからルフィナの遺伝情報を、人々の頭脳に施していったわけだ。
 それゆえに、不思議なのです。すでに、私という超越者を得てから、三日も経過している。あなたがオリビエにも、概念世界にも帰らず、未だに、頭脳の外側の世界に、留まる理由はなんなのですか?」


 真剣な面持ちで問いただすリアン。シグマは、しばし、その顔を見てから、くすりと笑った。口元を手の甲で隠すように、忍び笑いをするが、耐え切れない様子で、肩を小刻みに震わせている。優雅に、そして淑女のように笑うシグマを見て、リアンは、頬を紅潮させた。何故だか衝動的に、自分を恥ずかしく思った。リアンは言葉こそ丁寧だが、ぶっきらぼうに訊ねた。


 「何がそんなに可笑しいのですか」
 『いや、お前が、そんなに真剣な顔を、するもんだから。つい、な』
 「笑ってないで、答えてください」
 『そうふくれるな、非礼をわびよう。我がここにいるのは、至極単純な理由だ。いわゆる見物だよ。ずっと、概念世界に留まっていても退屈だしな。お前の住む世界に、並々ならぬ興味があったのさ』
 「見物ですか。そうですか。ずいぶんと、軽い理由だったんですね」
 『……リアン。お前、まだ機嫌を損ねているな。先ほど詫びたではないか。それに、お前が感じているほど、我は軽い気持ちでもないのだぞ』


 気だるげに、前髪をかきあげるシグマ。その目の奥に、陰がさしていた。シアンの色水の真ん中に、インディゴの絵の具が垂らしこまれたような色合い。リアンには、その鬱々とした色が、何を表しているのか、分からなかった。
 しばらくして、給仕係が、銀板に食事を乗せて持ってきた。ローゼン風 煮込みニシンそば 塩バター仕立て。二枚貝と海草のサラダ。日替わりブレンド香草茶。テーブルに並べられた食事は、どれも出来立てで湯気が立っており、頭の芯を揺さぶるような素晴らしい芳香を放っている。
 伝票を置いて、給仕がテーブルから離れた。先ほどまでへそを曲げていたリアンだったが、ご馳走を目の前にした途端、その不快な気持ちは影が薄くなり、フォークで巻き取ったニシンそばを、口に入れるや否や、不機嫌の三文字は、頭から飛んでいってしまった。


 魚肉が練りこまれた温かな小麦麺からは、爽やかな海の香りと、塩の味。黄金色のつゆも、王都のニシンそばと違ってやや薄味だが、それに代わって、麺そのものの味を鮮明に感じる。
 麺の真ん中には、四角く切り取られたバターが乗せられていた。それを、フォークでスープにかきまぜ、麺に絡ませる。熱に溶かされたバターは、四角から丸になり、次第に溶けきった。透き通っていたスープが、黄色く濁ったころ、再び食す。濃厚でまろやかなバターの風味と、塩の味が見事に調和していた。
 続いて、サラダを口に運ぶ。ボイルされた貝も、海草も、細かくちぎった葉野菜も、いずれも新鮮で歯ごたえよく、美味である。香草茶のカップを、口元までもっていく。目の覚めるような透き通った香りが、鼻腔とのどを通る。一口飲むと、わずかな酸味と甘みが、香りとともに、舌の上に広がった。
 リアンは夢中になって昼食を食べていた。知らず知らず顔をほころばせているリアンに、シグマが優しげな声で尋ねかけた。


 『食事の味は、どうだ。リアン』
 「ええ。なかなかいけますね。麺もスープも絶妙に絡みあっていて、お互いの味を引き立てあっている。味付けもしつこくないし、何より素材が新鮮です。さすが港町といったところでしょうか」
 『そうか、良かったじゃないか。存分に味わうがいい。なにせ、我がこの世界に焦がれる理由の一端が、その食事に秘められているのだからな』


 シグマの意味深な台詞に、リアンは麺をすすりながら、顔をあげた。シグマはシアンの瞳を輝かし、仰々しい口調で語り始める。


 『我は、ルフィナの叡智を束ねた意識複合体。我の使命は、リスタチアの起源を解き明かす、卓越した超越者を生み出すこと。我の住処は、オリビア岩礁群の地下、人間たちの精神の奥深くにある概念世界。我こそは、人智の統括者。我こそは、超越者の系譜を紡ぎし者――』


 天を仰ぎながら、諸手を陽の光にかざし、女神は独白する。高貴の声は、力強く、声高に、自らの存在を謳いあげる。その声は、王者のように誇らしく、しかし、どこか儚くもあった。刹那、女神はかざした手を、指先が白くなるほど握り締め、はっきりと言った。


 『しかし、それが一体何を意味するのだろう』


 女神の表情が歪んでいた。歯噛みするように歯を食いしばり、苦しげに眉根をよせている。リアンは、口の中のものを飲み込むことも忘れ、シグマから目を離せずにいた。シグマは、再び語りだす。


 『実体を持たぬ我は、ただの知識のかたまりだ。オリビエの本体に住まう、我の本当の姿は、膨大な情報と、それを統率する小さな意識にすぎない。この姿も所詮、仮初のもの。我の姿をイメージ化し、お前の脳に転写しているにすぎない。
 そうだ、我には体が無い。それが、どれほど絶望的な状況を生み出すか、想像したことがあるか、超越者。どんなに知識があったとしても、所詮ただ知っているだけなのだ。知識とは蓄えているだけでは、まるで意味を成さない。生きる過程の中で、知識を実践してこそ、それらは初めて意義を成す。
 しかし、体が無ければ、何も体感できないのだ。あふるる知識を持っていたとしても、我はそれらを身を以って体験できない。人間が味覚を認識する構造や、食物に含まれる成分を知っていたとて、肉体無き我は、お前が食べている料理の味を、感じることすらできない。甘い辛いなどの味覚の定義を知っていても、それを味わうこともかなわぬのだ』


 そういってシグマは、リアンの皿を見つめた。リアンも同じように、皿に目線を落とす。ニシンそばは、半分ほどに減り、冷めつつある。バターの香りは、いまだ鮮明。無意識のうちに、咀嚼中の麺を飲みこんだ。リアンは急に、気分が落ち込んでいった。自分が感動した食べ物の味を、女神は共有することができないのだ。シグマにとって、円卓の上に置かれた一皿の食事は、空の遥かかなた上にある星々よりも、遠い存在なのだ。
 シグマは、引き続き言葉を紡いだ。リアンは耳を傾けつづけた。


 『肉体を捨て、意識複合体となり、大いなる知恵を受け継ぎし者を、生み出すこと。これが、ルフィナの下した決断と選択だった。しかし、本当に長い時間だった。系譜を紡ぐ間は、まるで、永遠に途切れない糸で、編み物をしているような気分だった。リアン、お前は以前、我の逆立つ髪を見て、どれほど退屈そうだったか、形容したことがあったな。断言しよう。退屈以前の問題として、終わりが見えないということは、ひどく厄介なことなのだよ。
 体は無く、永劫の時を生かされ、ルフィナの知識すらも、我のために与えられたものではない。ただただ超越者を生み出すために、遺伝情報を刻印していく。ずっとそんな時間を過ごしていた。生物の進化には、気が遠くなるほどの時間が必要だった。
 だからリアン、お前の知恵の封印が解かれて、我はようやく平穏を感じることができた。やっと肩の荷がおりた。せっかく一仕事終えたのだ。人の世を見物したとて、誰にも責めることはできなかろう。これが我の見解だ。どうだ、超越者。なにか反論があるなら、聞かせてくれないか?』


 シグマは問いかけた。その声にもはや特別な感情も無く、どこか諦観しているようにも見えた。声というより、ため息で話しているようでもあった。テーブルに肘を立て、頬を支えている女神は、微笑していた。その笑みの影に、自嘲の念が隠れていた。
 対してリアンは、シグマが独白している間、全身の細胞が沸き立つのを感じていた。女神の声を聞きながら、眩暈すら感じた。食器を持つ手が震える。瞳孔が小刻みに揺れ、全身の産毛が逆立ち、自分の体内を流れる血の音が、轟轟と聞こえる。彼女が刻み続けた遺伝の刻印が、叫んでいた。彼女と永劫の時をともにした、遺伝の刻印が、慟哭していた。リアンは、叫びだしたい衝動に駆られていた。しかし、一心に耐えた。フォークが石畳に落ち、金属音を立てる。リアンは、自分の口を両手で押さえ込み、背を丸めて前傾する。理性を整えるため、鼻腔から深く息を吸い込んだ。


 『リアン、どうした。リアン』


 テーブルにうつ伏すリアンに、シグマが呼びかけた。やや間を置いて、リアンは正面に座る女神を、 目に捉えた。呼吸を落ち着かせ、おもむろに右手を伸ばす。
 その手が、シグマの頬を撫でた。
 実体の無いシグマは、当然、その手の感触を感じることはできない。リアンの手も、人肌に触れるはずが無く、むなしく空気を撫でている。しかし、シグマは己の意識の中に、何かが注ぎ込まれるのを感じた。自分の中に何かが満ちていくのを感じた。リアンは、シグマの目を真っ直ぐ見て、言った。超越者は、今にも泣き出しそうな、ひどく情けない表情をしていた。


 「お可哀想に。あなたは今まで、自分自身のために生きたことが、なかったのですね」


 シグマは、人知を司る女神は、今この瞬間、未知と対峙した。何も言い返せず、シグマはリアンを見つめ返している。リアンは、シグマの頬を撫で続けている。シグマは混乱していた。この男が、自分に寄せる想いの名前が分からない。自身に湧き上がる感情の名を、我は知らない。
 シグマは、どうしたらいいのか分からず、そっと、リアンの手の上に、自分の手を重ねた。当然、何も感じない。しかし、シグマは、己の中に満つる想いが、さらに倍化したように感じた。言葉を失った女神に、超越者は微笑みかける。完全に冷め切った香草茶は、ほのかに爽やかな香りを、潮風のうえに乗せていた。


 そして、鰯を取り合う海鳥と野良猫の鳴き声で、二人が我に返るのは、もう少し後の話。



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2008/10/24 Akire




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