リアンは目を閉じている。その表情は恍惚であった。まるで、素晴らしい音楽を聴いているような、川辺の白百合の香りを楽しんでいるような、そんな面持ちである。リアンの頭のなかには、世界の設計図が構築されている。脳の血管のすきまを、疾風がくぐり抜けていくような、爽快な気分。頭脳が心が体が、知的な遺伝情報によって、清められていく感覚。実に心地よい。


 まぶたの裏で、リアンは、精神に張り巡らされた素数の迷宮を、目下に眺めていた。そこは宇宙を思わせるような広大な空間で、数式が幾重にも連なり、まるで道のようになっている。小道は、幅が狭く、まっすぐ伸びたかと思えば、突然、螺旋を描いたり、糸のように細くなっていたり、いきなり広いトンネルのようになっていたり、途中で途切れていたり、複雑に入り組んでいたり、どこまでも続いていく階段になっていたりする。数字で構成された細道は、無秩序に空間を走っていた。しかし、その一貫性の無さにこそ、美しき規則性が秘められているようにも見えた。
 リアンは不思議な気持ちになる。つい先ほどまで、自分はあの迷宮を彷徨っていたのに、今ではこうして自分が歩いてきた道を俯瞰することができる。あの時は、一歩一歩進んでいくことに精一杯だったが、こうして見ると、自分が歩んだ道が、本当に美しい軌跡であったことに気づいた。目の前の光景に、リアンはため息をつく。心底、自分は数の秘術に魅入ってしまっているのだと、気づかされる。リアンは満足だった。


 リアンの手は、小刻みに震えていた。リアンは両目を閉じたまま、両手で、自分の頬を包む。全力で駆けたときのごとく、ほてっていた。頭はクリアだったが、興奮おさまりきらない体は、平常時より、いくばくか体温が上昇している。全身の、およそ60兆個の細胞たちが、高らかに歓喜していた。リアンは細くゆっくりと、息を吐く。目を開けた。
 そこは書庫であった。本棚には隙間なく書物が詰め込まれ、赤茶けた古文書や、仰々しい大辞典、詩編、絵物語などが、背表紙を見せている。壁際には、紙切れの束が積み重なっていた。書庫の中心のスペースには、円形の敷物がしかれている。その上には脚の長い小机と、背もたれの無い丸椅子。二つとも、木で作られたものだった。机には、インク壷と、白鳩の羽筆、ぎっしりと数式が書き連ねられた羊皮紙があった。机の脚の下に、空っぽになったインク壷が二つ転がって、敷物に黒い染みを作っている。椅子には、リアンが深く腰掛けていた。


 この書庫は、リアンの家系に代々伝わるものであった。祖先たちが保存した豊富な知識、導き出そうとした解答のかけらが散りばめられている。リアンはこの書庫が大好きだった。考え事をするとき、本を読むとき、自分の大好きな数字を操るときは、必ずこの部屋で過ごした。知識が宝物のように蓄えられたこの書庫が、大好きだった。
 机の隣の燭台に、明かりは灯っていなかった。1刻前に灯火は消えていて、燭台の皿には、溶けた蝋が溜まり、すでに固まっていた。リアンは、数式を解くのに夢中になりすぎて、明かりが消えたことにも、気づかなかったのだ。天窓から差し込む月光の下で、リアンはゼータの小道の難問に挑み続けていたのだ。しかし、燭台と月光に代わって、この部屋のすみずみまで照らし出す存在が、今現在、リアンの目の前にいた。とてつもない光量を放つそれは、書庫を、真昼のように照らしていた。リアンはまぶしがる様子も無く、その姿を凝視していた。


 光の中心には、美しき女神が立っていた。女神にしか見えなかった。それほどの美貌。それほどの気高さ。白い肌は、陶器のようなまろみと、艶をたたえている。華奢な肢体、通った鼻筋と尖った顎。知性を湛えた鋭い目。シアンの瞳は精練な輝きを放っている。白く輝くローブは、大理石のごとく、閃光を放つ豊かな髪は、いなづまのようであった。女神は、蒼く輝く石が埋め込まれた、兜と、盾と、矛を身に付けていた。
 リアンは、熱に浮かされたように、神々しき美女を見つめていた。翡翠の瞳に映りこんだ女神が、唇を動かす。高貴な横笛のような音色が紡がれた。


 『どうした、リアン。やや放心気味にも見えるが……』
 「いいえ、心配には及びません。少し眩暈がしただけです。世界の展開図が、洪水のように押し寄せてきて、ただただ圧倒されていただけです。ほら、もう立つこともできます」


 そういって、リアンは椅子から降り、両の脚で立ってみせた。その拍子に、机の上から羊皮紙が落ちた。巻物状のそれは、ころころと転がって、壁にぶつかった。長く伸びた紙には、数式、図、数直線が、隙間無く書き連ねられていた。大人の歩幅で約20歩分の長さの羊皮紙に、あまたの数字が記されていた。リアンが、ゼータの小道の七つの難問を解いた軌跡である。紙の中腹には、ところどころ、インクで塗りつぶされた箇所があった。リアンが、何度も算術をやり直した形跡であった。
 リアンは姿勢正しく立っていた。緑の長衣を身にまとい、銀と金の中間のような色の髪は、左右対象に跳ねている。リアンは、言葉の通りどこにも異常がないらしい。シグマはうなづき、再び口を開いた。


 『よかろう。リアン、我の言葉を覚えているな? お前が次にやるべきことは、空舟の遺跡を目指すことだ。そこにこそ、リスタチアの存在を解く、確たる起源が秘められている』
 「分かりました。必ず、遺跡へ向かいます。しかし、女神」
 『我が名はシグマだ』
 「――シグマ。私には、その前に、行くべきところがあります」


 シグマの細い眉が、わずかに動いた。長い人差し指を、鉤の形に曲げて、唇にあて、考える。しかし、人造の女神には、超越者の意図がはかれない。シグマは観念したように、開口した。


 『つまりお前は、リスタチアの起源を得るより、優先すべき事項があると言うのだな? 聞かせてもらおう。お前は何処へ行くというのだ?』
 「オリビエ岩礁群の地下空洞、――あなたが封じられているところです」


 リアンの真剣な声を聞くや否や、シグマは目を剥き、言葉を失った。人の口から、その場所の名を聞くなんて、思ってもいなかった。
 リアンは真摯の目で、女神を見つめている。まるで、何もかも見通しているような目だった。実際、見通しているのだ。リアンは、超越者となったのだから。シグマは、真理を貫く瞳を、真っ向から見つめ返し、尋ねた。尋ねると言うより、確認をするような言い方だった。


 『超越者リアンよ。おぬしは、我をも理解したのだな?』
 「その通りです、女神シグマ。私は、あなたの7つの難問を解いて、この世界の膨大な設計図を見ました。世界中の、物質と、事象と、生命の構造を理解したように、あなたの正体も理解しました。世界を構築する数列のかげに隠れて、あなたの誕生が垣間見えたのです。ルフィナ族の意識と知識の集合体。人造女神。光。超越者システムの要。そして、あなたは、オリビエに閉じ込められている。私には、そこに行くべき理由がある」


 リアンはそう言って、足早に書庫を出た。自室に入ると、戸棚から、革袋に長い紐を通した鞄を取り出した。一抱えほどある鞄は、薄っすらとホコリをかぶっており、リアンはそれを払い落としてから、寝台の上に乗せた。そして、荷造りを始めた。着替え、保存食、水、筆記用具、蝋燭2本、火付鉄、毛布、懐中時計、少しばかりの路銀、それらを次々に詰め込んでいく。
 黙々と作業を進めるリアンの背後には、シグマが立っていた。書庫にいたときのまばゆい光は、いまは無く、依然と髪が、閃光を放っているのみ。両手に持っていた盾と矛もどこかへ消えうせ、身軽になったシグマは、両腕を組んで、リアンの旅支度を眺めていた。背を向け、手を動かしながら、リアンは後方にたたずむ、手持ち無沙汰のシグマに言った。


 「確認し忘れてましたが、あなたのその美しい姿も、仮初のものなのでしょう? 簡潔に言うなら、意識集合体には実体が無い、といったところでしょうか」
 『その通りだ。私を創造した者たちは、肉体を捨てて、意識を生かし、後世の選ばれし者に、自分たちの能力と知識を系譜に組み込むことが目的だった。その結果こそが、実体なき知力の結晶――私だ。むしろ、それで私が肉体を持っていたら、並々ならぬ理不尽さも感じるがな』
 「なるほど。確かに、それは言いえて妙だ」


 リアンは、鞄を閉じて、喉の奥で笑っていた。鞄の紐を肩に下げて、何度か体を揺すり、体勢を整える。それから、衣類棚の戸を開け、上半身を突っ込み、何かを探していた。棚の奥から、リアンのくぐもった声が、聞こえる。リアンは、扉の前で待っているシグマに、話題を振っているのだった。


 「ところで、意識集合体である、あなたの姿は、当然、常人には感知されないのですよね? なにせ、私でさえ、超越者となって、初めてあなたの姿を認識しましたから」
 『その通り。私は実体を持たない、故に人に気づかれること無く、知識の転写を行うことができた。私の本体はオリビエにあるが、こうして本体から離れて活動することも可能なのだ』
 「そういうことですか。ところで、先ほどまでの私では、あなたの姿は見えなかったけど、その高貴の声はずっと聞こえていましたよ。ゼータの小道で、何度もお聞きしました」
 『無論、実体無き私は、声を発することはできない。しかし、ルフィナの知識という情報を、人々の遺伝子に転写することが可能なら、私の意思や言葉という情報を、お前の遺伝子に、じかに伝えることも可能だ』
 「なるほど、これで納得しました。あなたには、体が無いのに、どうして声が聞こえるのか不思議だったんです」


 そういって、リアンは、衣類棚から頭を出した。手には、厚手の外套が握られていた。リアンが、それを羽織ろうとした途端、不意に胃袋が鳴った。反射的に、腹部を押さえて、リアンは思い出す。そういえば、昨日の昼から、何も口にしていないんだった。ゼータの小道の難問に、我を忘れて挑戦していたため、食べることも寝ることも、頭の中から抜け落ちていたのだ。
 超越者といえど、お腹は減る。リアンが後ろを振り返ると、シグマが腕を組んで立っていた。リアンは気まずそうに頬を掻き、尋ねた。


 「……聞こえましたか?」
 『ああ、聞こえたとも。なかなかに素直な胃袋だな』
 「大変申し上げにくいんですが……、その……、出発前に腹ごしらえしても、いいですか?」
 『構わん、好きなだけ食べるといい。行き倒れでもされたら、困る』
 「では、お言葉に甘えて――」


 リアンは、鞄と外套を、寝台の上に下ろして、台所へ向かった。かまどに火を焚き、とにかく空腹を満たしたかったので、鍋いっぱいに、麦粥を作った。どろりとした流動食を器に盛り、食卓の席に座った。惣菜代わりに干し肉をかじりながら、リアンは麦粥を腹に詰め込んでいった。向かいの椅子に、シグマが腰かけ、リアンの食事風景を、黙って見つめていた。シグマが唐突に尋ねた。


 『リアン』
 「はい」
 『お前は、オリビエに行って、何をするつもりなのだ?』


 リアンは、水の入ったグラスを手に取り、咀嚼中の食べ物を、胃に流し込んだ。口の中と、グラスの中をからにして、リアンは一息つく。そして、人差し指をまっすぐにピンと立て、それを自分の口元に当てて、


 「それは着いてからの、お楽しみです」


 と、片目をつぶり、いたずらっぽく笑ったという。
 かくして、超越者リアンは、麦粥三杯と干し肉二枚を、ことごとく腹におさめ、満を持してオリビエに向かった。彼の隣には、女神シグマがたたずんでいたが、道行く人は、誰もその美しい姿を見ることはなかった。



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2008/10/15 Akire




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