ハテナは、思わず、後ろを振り返る。フローリングの廊下、その先には二階へ続く階段。壁にぶら下がった、10月のカレンダーと木製の状差し。ドアが三つ。台所と洗面所とリビングに続くドア。電話機。隅に立てかけられたグレーの掃除機と、スリッパ入れ。黙する電球。どこからともなく、時計の針の音が聞こえる。
 ハテナは、歩くような速さで、廊下を飛翔する。台所に顔をのぞかす。洗面所の洗濯機に、頭をつっこんでみる。トイレの扉を開けてみる。ついでに、便器の蓋も開けてみる。リビングをくるりと一周する。黙りこくった家電家具は言いようの無い圧迫感を放ち、ノイズに限りなく近い無音は虫の羽音のごとく残響。家の外から、たまに自動車が通り過ぎる音が聞こえた。


 ハテナは首をかしげた。
 ちがう。なんだかちがう。なにがちがう?
 違和の正体に気づけない。


 静か過ぎる家の中、ハテナは途端に心細さを感じ、リビングのテレビを点けた。電源の入る音のあと、愉快な歌が聞こえてくる。暗い液晶画面に、カラフルなスタジオで、歌に合わせて踊る大人と子どもたちが現れた。無音がかき消され、ハテナは笑顔になる。居間のカーペットに寝転がり、ハテナはブラウン管の放つ極彩色にのめりこんだ。
 時間が変わるにつれ、番組も変わる。三頭身のキャラたちの、コミカルなアニメーション。パペットによるミュージカル。町の中で、英語の歌を歌うきぐるみ。様々な映像と音楽に、ハテナは夢中になった。しかし、その好奇心と集中力も、長くは続かなかった。


 テレビを点けっぱなしにしたまま、ハテナはふわりと浮き上がる。本棚から大好きな絵本を取り出し、机の上で開いた。二匹の野ねずみが、おおきなカステラを作るおはなし。文字はまだ読めないので、絵をながめながら、ページをどんどんめくっていく。大好きなページは時間をかけて見ていた。けれど、絵本はすぐに終わってしまった。
 もう一度最初から読み直しても、あっという間に終わってしまう。他の絵本も手に取ったが、全部 一緒だった。MZDやオプションに読み聞かせてもらうときは、もっと長いおはなしに思えたのに、絵本の最後のページを見るたびに、ハテナは、体の真ん中だけが、縮んで縮んで、消えてしまいそうな切ない気持ちを味わう。ハテナは絵本を閉じた。テレビも消した。再び、部屋が沈黙した。


 ハテナは、もう一度キッチンをのぞいた。
 いつもなら、オプションがお皿やお鍋を洗ってるはずなのに、だれもいない。
 ハテナは、もう一度洗面所を見にいった。
 いつもなら、かみさまが寝癖を直そうと、鏡とにらめっこしてるはずなのに、だれもいない。
 ハテナは、もう一度リビングに戻った。
 いつもなら、三人で一緒にテレビを見てるはずなのに、ぼくしかいない。


 唐突に、メロディーが部屋に響いた。電子音によるエリーゼのために。振り返ると、掛け時計が、時報を歌い上げている。午前9時。MZDたちがミーティングを開始している時刻。
 旋律を聴きながら、ハテナは自分を取り巻く空気が、急激に冷えていくように感じた。無意識に、呟いた。


 ( ……まだ、9時なの? )


 声に出した途端、ハテナは凍りついた。ハテナの思いが、感情が、とどめなくあふれ出る。
 あと、どれくらい、待たなきゃいけないの? 半日って、あとどのくらいなの? かみさまと、おぷしょんはいつ帰ってくるの? どうして、こんなにしずかなの? どうして、こんなにさみしいの? どうして、なにをしても、楽しくないの? るすばんって、こういうものなの? るすばんって、いつおわるの? なんで、こんなに時間を長くかんじるの? アッチですごした時間のほうが、もっともっとぜつぼうてきなくらい、長かったはずなんだよ? ぼくは、いつまでひとりで、いなきゃいけないの?


 答える者なき疑問が、ハテナをがんじがらめにしていく。もう二度と味わうはずがない、と思っていた孤独が、寂寥が、再びハテナの全身を侵食していく。
 ハテナは、逃げ出すように二階へ飛んでいった。一直線に、寝室の隣にある、MZDの書斎に入り、すぐさまドアを閉めた。扉を背にして、荒い呼吸をくりかえすハテナ。書斎には、まだ朝食の匂いが残っていた。


 ハテナは、よろめくように飛び、MZDの仕事机に力なく着地する。うつぶせのまま、顔をあげると、机の上のアナログ時計が目に入った。長針は、まだ1〜2分程度しか動いていない。
 ハテナは、机から離れた。無感情に時を刻むアナログ時計に背を向け、回転椅子に飛びつく。その反動で椅子が、弱弱しく左右にゆれた。きしむ椅子に、まだMZDのぬくもりが残っているような気がした。 わずかなあたたかみから、MZDが、頭を撫でてくれたこと、抱きしめてくれたこと、一緒に眠ってくれたことを、思い出す。そのぬくもりを決して離さぬようにと、ハテナは必死に椅子の背にしがみついている。掠れた声で呟いた。


 ( はやく、帰ってきてぇ…… )


 途方もない時間を憂いて、ハテナは椅子に顔をうずめて、いつしか眠りに落ちた。
 水色のクジラの夢は見なかった。底なしの無の世界で、ひたすらもがき泳ぐ夢を見た。















      ハテナ。





 夢の中で、無の中で、ハテナは声を聞いた。聞き覚えのある声だったが、思いだせない。無に浸かった体が、意識が、浮上する。
 ハテナは目覚めた。MZDの書斎で、椅子の上で丸くなり、眠ってしまっていた。ゆるゆると顔をあげると、オプションがハテナの肩を揺すりながら、顔をのぞきこんでいた。夢の中の声は、オプションだったらしい。
 オプションの顔を見るなり、ハテナは彼の胴に腕をめいっぱい回し、しがみついた。無言で、顔をなすりつけるハテナに、オプションは尋ねる。


 ハテナ、大丈夫ですか? うなされていましたよ?


 ハテナの頭を撫でながら、オプションは問うた。しかし、部屋は静寂であった。
 オプションは、声を持たない。音声を発せられない体なのだ。ゆえに、オプションは意思で対話する。相手の生命に、直接おのれの意思を流しこむのである。オプションと対話をすると、声も音も聞こえない代わりに、頭の中に明瞭に文章が浮かび上がるように感じるのだ。
 もっとも、オプションは大抵、この対話法を使わない。一般人に、意思で語りかけても、彼らはそれをオプションのものと、認知できないからである。オプションの意思を、オプションの声と認識できるのは、MZDとハテナと、その他ごく少数のみである。
 ハテナは、顔をオプションの腹部にうずめたまま、答えた。くぐもった声だった。


 ( ……アッチの夢を見たの。すごくいやだった。 )
 ――可哀想に。一人にしてしまって、本当にすみません。


 オプションは、心から悔いて、謝罪する。オプションは、小刻みに震える小さな背中をさすり、頭を撫でてやった。
 開いたカーテンの隙間から、暖かな陽光が差しこんでいた。ときたま通り過ぎる秋風が、窓ガラスを揺らし、人の声のように甲高く呻吟する。書斎の本棚には、書類とレコードと楽譜とが、幾枚、幾冊も、はみ出さんばかりに整列しており、部屋の隅にはお気に入りのDJセットが置かれている。
 広い仕事机には、パソコンや、時計や、書きかけの五線譜や、ペン立てや、山脈を築く紙の束などが、処狭しと連なっている。しかし、真ん中のスペースは十分空いていて、ちゃんと仕事机としての機能は果たしているらしい。物は多いが、整頓された部屋だった。オプションが常日頃から、清掃と整理を心がけているためであった。
 オプションになだめられ、少し落ち着いたハテナは、疑問を抱いた。顔をあげ、オプションに尋ねる。


 ( おぷしょん、みーてぃんぐは、どうしたの? かみさまも帰ってきてるの? )
 残念ながら、MZDはまだミーティング中です。MZDは、忙しくされている最中、あなたのことが気になって、一度家に帰って様子を見るよう、わたしに頼んだのです。
 ( ……かみさま、まだ帰ってこないんだ。 )
 ――はい、まだ12時ですので、もう少しかかるそうです。
 ( ……そう。 )


 ハテナは肩を落とす。机の上の時計も、真上の12の数字を、しっかり指している。オプションも、ミーティングがあるから、またすぐ出かけてしまうかもしれない。まだ、るすばんしなくちゃいけない。
 オプションにしがみつく手に、力が込められる。ハテナの心のゆらぎを、オプションはかすかに感じて、少し考え、問いかけた。


 ハテナは、まだお昼食べてませんよね? ご飯を食べたら、一緒にミーティングに行きませんか?
 ( え、いいの? )
 ええ、 人手が足らなくて、困ってるんです。ハテナもお手伝いに行きませんか?
 ( でも……、ぼく、るすばんしなきゃいけないから…… )
 心配ありませんよ。鍵をかけて出かければ、済むことです。
 ( ……。 )
 今度のパーティーは、たくさんの人を呼びたいそうなので、たくさん招待状を書かないといけないんです。ハテナには、招待状に切手や、シールを貼るのを手伝ってほしいんです。
 ( ……。 )
 それに、MZDが、ハテナが手伝いたいと言うなら、是非連れてくるように、と言ってました。
 ( ……。ほんとに行っていい? )
 勿論です。
 ( ……いっしょに行く! )


 ハテナは、ようやく笑った。二人は手を繋いで、一階のキッチンに行き、昼食をとった。
 その後、オプションに連れられて、会場に着くと、MZDが出迎えてくれた。ハテナは、迷わずMZDの胸に飛びこんだ。椅子に残った温もりよりも、確かなあたたかみが、そこにあった。




お題 → 椅子に残った温もりは

『選択式お題 色は匂えど散りぬるを』    配布元>>as far as I know

 この話を書くに当たって、自分の子どもの頃の「るすばん」の感覚を思い出してみました。でも、出てきたのは、留守中にお客さんがやってきたので、家にあげて居間に案内してから、おもてなしとして、牛乳一杯とトースト一枚ふるまった記憶ぐらいです。あの女のお客さん、一体どう思ったんだろうか。
 無の世界にいたときは平気だった孤独に、もう耐えられなくなっているハテナが書きたかったのです。ひとりきりの時間って、ときに長く感じます。ちなみに、朝食のシーンは、ジ○リ作品を意識しながら執筆しました。美味しそうな食べ物で有名な、あれらです。とにかく、美味しそうに、思わず食べてみたくなるような描写を心がけました。あんな充実した朝食、ここ最近食べてないなー。






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2008/09/12 Akire