マウスをクリックすると、印刷機が振動し、鈍いうなり声を上げ始めた。セットしたA4紙を、ずるずると飲み込み、印字された紙を吐きだしていく。MZD自らが徹夜で仕上げた、ポップンパーティーの企画書だ。
  サングラスを額までずらし、酷使した両目をまぶたの上からもみながら、MZDは椅子の背もたれに寄りかかった。そのまま両手を組んで、肘をまっすぐ伸ばし、天井に向かって限界まで突き出す。背中、肩、首の固まった筋肉が、一斉に音を立てて伸びきった。おもむろに窓を見ると、 カーテンの隙間から斜めに光が差しこんでいる。夕食を終えてから、すぐ仕事をはじめたはずなのに、もう早朝になってしまった。不意に、あくびが零れ落ちる。時間の経過を認識した途端、全身の倦怠感がいっそう増し加わった気がした。


 MZDは凝り固まった肩をもみながら、長く息を吐く。思わず苦笑した。不真面目そうでニヒルな外見が売りのチョイ悪カミサマが、ずいぶんと仕事熱心なことだ。しかし当然のことだった。 一回目のパーティーから、もう10年が経ったのだ。今度のパーティーは、10周年を記念する大事なイベントになる。気合が入らないはずがない。
 頬を両の手のひらで数度たたき、プリンターが吐き出した企画書を手に取った。角をそろえて、クラフト紙の書類封筒に入れる。卓上のアナログ時計は、6時35分を示していた。間に合ってよかった。9時からは、パーティーのミーティングがあるんだ。


 と、ノックの音が二回した。(入って)いいぞ、と扉に向かって声をかけると、角を生やした影が部屋に入ってきた。陽気な悪魔をかたどったような影は、三叉槍を背負い、トゲ付の腕輪を身に着けている。影は、MZDからオプションと呼ばれていた。
 白い歯を見せて笑うオプションは、朝食を乗せたお盆を持っていた。机の上のノートパソコンを端に押しやり、空いたスペースに皿を次々に並べていく。バターが塗られたトースト二枚。焦げ目のついたカリカリのベーコンに、ポテトサラダと、プチトマトが二つ。氷を浮かべたアイスココア。スプーン一杯のはちみつを加えたヨーグルト。色とりどりのおかずと、香ばしい匂いが、視神経と嗅神経を通じて、空っぽの胃袋を刺激した。


「めちゃめちゃ美味そうじゃん。サンキュー、オプション」


 椅子に座りなおし、アイスココアを一口飲んで、口の中を湿らせてから、トーストをかじった。狐色のトーストは、表面はサクッとしてても、中は白く柔らかな食感を保っている。ポテトサラダをフォークで掬い取り、口に入れる。マッシュポテトとマヨネーズが均一に混ざり合い、控えめだが塩のきいた、目の覚める味だった。輪切りのきゅうりの歯ごたえも小気味よい。咀嚼しつつも、美味いぞ、とオプションに目配せする。オプションは、朱に染まった頬を、指で掻いていた。


 ( かみさまー )


 声がした。開いた扉の先から聞こえたのか、天井から聞こえたのか、自分の内側から、或いは世界の外側から聞こえたのかすら、特定できない声。子どもなのか大人なのか、男なのか女なのかも、判別のつかない声。雨滴のように澄んでいて、砂塵のように掠れた声。不可思議な声は、黒色の体をもっていた。紗のごとくうねる体は、思うままに廊下を浮遊し、半開きの扉を器用にくぐりぬけ、MZDの前にやってきた。ベーコンをかみちぎるMZDに、黒色が話しかけた。


 ( かみさま、あのね、あのね。 )
 「どうした? ハテナ」
 ( 今日、すごいゆめを見たんだよ。 )
 「お、どんなの見たんだ?」


 咀嚼中のベーコンをアイスココアで流し込み、MZDはハテナの話に耳を傾ける。ハテナは天井すれすれを飛び回りながら、歌うように夢の内容を語り始めた。


 ( 町のなかにクジラがたくさんいてね、ぼくは水色のクジラと友だちになったんだよ。いっぱいいっぱい遊んだんだけど、電車がやってきたから、みんな帰らなきゃいけなくなったんだよ。ぼくはもっと遊びたかったけど、クジラさんが帰るまえに、プレゼントのふうせんをくれたんだよ。ぼく、はじめてプレゼントもらったんだよ。 )


 ハテナは弾むような声音で、夢の話をする。MZDは頬杖をついて、微笑をたたえながら、聞いている。 オプションは、銀製のケトルで、アイスココアのおかわりを注いだ。くるみ色の液体が、渦まくようにそそがれ、丸くなった氷が、グラスにぶつかり高い音を立てた。
 MZDは、まだ口をつけてないもう一枚のパンを手に取った。小鉢のヨーグルトをスプーンで二匙すくいとり、トーストの真ん中に落とす。スプーンの背を使って、円を描くようにヨーグルトを塗りながら言った。


 「よかったな、ハテナ。プレゼント、嬉しかったか?」
 ( うん、ふうせん大好き。 )
 「そうか。クジラさんにありがとうって言ったか?」
 ( あ、ううん。言ってなかった。 )
 「そっか、今度クジラさんに会ったら、ちゃんとお礼するんだぞ」
 ( うん。 )
 「よし、できた。ハテナ、こっち来いよ。朝飯食おうぜ」


 MZDが手招きをすると、ハテナが机の前まで降下してきた。MZDは自分のパンをくわえながら、トーストの皿に、おかずを盛っていく。ポテトサラダを半分。プチトマトを一つ。半分噛み千切ったベーコン。最後にヨーグルトトーストを乗せて、ハテナに皿を手渡す。
 こぼさないように気をつけろよ、とMZDが注意する。うん、と素直に返事して、ハテナはトーストにかぶりつく。サクッという食感とともに、はちみつのほのかな甘みと、ヨーグルトの香りが、口の中に広がった。口の周りを白くして、ハテナが言った。


 ( おいしい。 )
 「だろ? オプションが作ってくれたんだぜ。」
 ( おぷしょん、ありがと。 )


 ハテナのアイスココアを持ってきたオプションは、照れくさそうに後ろ頭を掻いた。MZDが小鉢のヨーグルトを一口食し、時計を見る。もう10分で7時になる。これ食べたら家を出ないとな、と考えた折に、ふと気づいた。


 ハテナ、どうしよう。


 正直、企画書のことで頭がいっぱいで、全然考えてなかった。そういえば、ハテナを家に一人にするのは、今日が始めてか。しかし、一人で置いていくのも不安すぎる。むしろ、一人はいやだって、駄々をこねられそうだ。かといって、無の世界から連れ出して、まだ二週間も経ってないハテナを、第一回目のミーティングに連れて行くのは、さすがにアドベンチャーすぎる。こんな時間じゃ、誰かに預けるってのも無理そうだし、そもそもハテナを任せられるほどの力量を持ったやつが、俺以外にいるだろうか。
 万策尽きた。というより、三策尽きた。どの選択肢も危なっかしいことこの上ない。スプーンをかじりながら、考えた末、MZDは決断する。俺が決めるよりも、当の本人に判断を任せるべきだろう。後ろめたい気持ちを振り払いながら、MZDは口を開いた。


 「ハテナ。俺、今日仕事に行かなきゃいけないんだ。」
 ( しごと? )
 「ああ。次のパーティーのミーティングが始まるんだ。これ食べたら、もう出発しなきゃいけないんだけど、おまえ留守番できるか?」
 ( るすばんって、なに? )


 無垢の問いに、MZDの心臓が高鳴る。留守番の説明したら、突然泣き出したりしないだろうか。暴れまくったりしないだろうか。緊張走る一瞬である。短く深呼吸をして、MZDは説明を始めた。


 「俺が仕事に行ってる間、家で待ってることだよ。今日の帰りは、たぶん夕方になるから、半日、俺は家にいないんだ。オプションも俺と一緒に出かけるから、家にはおまえ一人になっちまうんだ。それでも大丈夫か?」
 ( …… )
 「あー、いやだったら、いいんだぞ。俺と一緒についてってもいいし、他のやつに家に来てもらうことだって……」
 ( るすばん、する。 )


 まっすぐすぎる返答だった。あまりにまっすぐすぎて、音楽神は、すべての音と歌声を愛する我が耳を疑ったほどだ。予想外すぎる。まさか、こんな簡単に引き受けてくれるとは。おそるおそる、尋ねてみた。


 「いいのか? おまえ一人になっちまうんだぞ」
 ( うん。だって、かみさま帰ってくるでしょ? ずっと一人じゃないでしょ? )


 無垢の声に、神の胸が痛む。確かにこいつは、恐ろしく永い間、たった独りきりで、無の世界にいたんだ。半日なんて、ハテナにしてみれば、一瞬、一寸、一秒にも満たない時間だろう。けれど、それでも、忍びない。MZDは念を入れて聞いてみた。


 「いや、そうだけど、寂しくなったりしないか? 本当に一人で大丈夫か?」
 ( だいじょうぶだよ。ぼく、るすばんしたい。るすばん、初めて。 )


 そういって、ハテナはヨーグルトトーストをほお張る。ハテナにとっての留守番は、独りきりで取り残されるというより、未知の体験、という認識が強いらしい。MZDは観念した。最後の最後に念を押した。


 「じゃあ、大丈夫なんだな。留守番できるな?」
 ( うん。るすばん、する。 )
 「よーし、分かった。留守番、たのんだぞ。帰りにお土産買ってきてやるからな」
 ( うん。るすばん、がんばる。 )


 MZDはハテナの頭を撫でてやった。口の周りのヨーグルトを、指でぬぐってやると、ハテナは鈴のように笑った。




 出発の時間になった。
 身支度を整えたMZDは、しゃがんで、スニーカーの靴紐を結びなおしている。オプションは、書類封筒を持ち、たたずんでいる。ハテナは、るすばん、るすばん、と口ずさみながら、飛び回っている。それを背中で聞きながら、MZDはいまだ心に残る不安を、払拭した。ハテナが大丈夫と言ったんだ。俺が信じてやらないで、どうする。立ち上がると、ハテナが言った。


 ( いってらっしゃい。 )
 「おう。キッチンに、サンドイッチがあるから、昼はそれを食べるんだぞ」
 ( うん、わかった。 )
 「じゃ、行ってくるからな」


 そう言って、MZDは振り返らずに、歩き出す。オプションも後に続く。玄関を出た先は、住宅街だった。人は見当たらなかった。まだ七時を回ったばかりで、学生の姿もない。カラスが数匹、本日の朝食を狙って、電線に待機している。朝陽は家々の屋根を照らし、薄雲が淡い色の青空にたなびいていた。
 MZDは、ポケットに手を突っ込んだまま、歩き出す。三歩目で、立ち止まる。スニーカーのつま先で、アスファルトをたたくと、永遠の少年はふわりと浮き上がり、オプションに肩を抱かれて、流星のごとく飛び去った。
 ハテナは扉の前まで出ると、星の軌跡にむかって、もう一度、いってらっしゃいを言った。空を裂く一筋の光が消えるまで見送った。ハテナは、るすばん、るすばん、と口ずさみながら家の中に入り、ドアノブを両手でつかんで引いた。


 扉の閉まる音が、異様に大きく聞こえた。




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2008/09/10 Akire


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