「ただいま」 光の女神が帰宅した。両の手には、中身がはちきれんばかりに詰まった、ビニール袋。長ネギや、大根の葉、牛乳が、白色の薄っぺらい袋の口からはみ出てる。シグマは、玄関に買い物袋を下ろし、腰に手をあて、上半身を後方にのけぞらした。近場のスーパーマーケットまで、徒歩五分とはいえ、3日分の食料はなかなかの重量感であった。もしかしたら、体がなまっているのかもしれない。永きに渡る時の中、退屈を噛み潰しながら、過ごしてきたシグマは、数千年ぶりに自分の健康状態を気にかけた。 シグマの髪は、今は、発光していない。彩度と明度を落としたグレーに染まっている。服装も、ギリシャ風の長衣でなく、白のブラウスと、ライトブルーのロングスカートという、シンプルなスタイル。当然、兜も矛も盾も無い。人間界を歩くのに、いつもの格好では、いささか奇抜すぎるための装いである。俗世で暮らすのも、そうそう楽ではない。 ヒールを脱いで、家にあがる。シグマは目をつぶり、イメージする。己の真実の姿を。突如、稲光が絹糸のごとくシグマの唇から紡がれ、全身を繭のように包んでいく。強大なエネルギーの中で、髪が逆立ち、雷光と同じ色に染まる。束ねられた金糸がいかずちとなり、蛇のように身に巻きつき、衣服の構造を変革する。光が四散し、辺りを塵のように漂う頃、シグマは普段の身なりに戻っていた。大理石のように冷たく輝くローブ。いなずまの髪。左腕には金のアームレット。しかし、武具は装備していない。これから、夕飯を調理するにあたって、邪魔になるからだ。買い物袋を再び手に持ったとき、ハテナが居間の扉を開け、飛び出した。 ( しぐまー。ただいまー。 ) 「ハテナ。ただいまじゃなくて、お帰りではないか?」 ( あ。そっか。おかえり、しぐま。 ) 「それでいい。ただいま、ハテナ」 背後に回って、首に抱きついてくるハテナに、シグマは本日二度目のただいまを言う。肩に顔をすりよせられて、なんだかくすぐったい。ハテナを背負ったまま廊下を歩くと、耳元で、ハテナが囁くように笑い、言った。 ( しぐま、お外のにおいがするね。 ) 「そうか。木枯らしの匂いが、服に染み付いたのかもな」 ( ぼくも、お外であそびたい。 ) 「もう夕方だから、今日は、よしたほうがいい。明日は天気がいいらしいから、明日にしないか?」 ( うん。あしたね。 ) ご機嫌に笑うハテナを肩に、シグマは台所のテーブルに袋を載せた。つぎつぎと食材を冷蔵庫にしまっていくと、扉の隙間からMZDが顔を出した。MZDが歯を見せて笑う。 「よお、買い物ご苦労さん」 「いい身分だな、音楽神。突っ立って見てないで、手伝ったらどうだ?」 「いやー、俺もいろいろと仕事で忙しいからさー」 「ほほう、そうか。忙しいのか。ならば、その手に持ってるトランプは、仕事の資料か何かなのだろうな?」 切れ長の目が、MZDの手元をじとりと睨む。MZDは、コンマ二秒遅れて「やべっ」と舌を出し、手を後ろに隠す。シグマは、そんなMZDから目を離し、テーブルの上に目線を戻す。いつの間にか、ハテナが買い物袋に顔を突っ込んでいた。袋をガサガサ言わせる音に隠れて、おかし、おかし、と小さな声が聞こえる。シグマは、まなじりを人差し指で抑えて指摘した。 「ハテナ、今日はお菓子は買ってないぞ」 ( えー。 ) 「残念そうな顔をしても、無駄だ。それより、私が買い物に行ってる間、MZDと何をしていたんだ?」 ( えっとね。MZDにね、とらんぷをおしえてもらったよ。それでね、かみさまと、おぷしょんと、ぼくで、大ふごうやったんだよ。ぼくね、かくめい返し返しやったんだよ。2回、一位になったよ。 ) 嬉しそうに話すハテナ。事実を偽らず、包み隠さず、素直に答えている。シグマは「すごいじゃないか」とハテナを褒めてから、扉のまえで白々しく口笛を吹くMZDに、眼差しで語る。この解答の中のどこに、仕事で忙しいなんて単語が当てはまるのか、証明してみせてくれないか? この嘘つき神様めが。MZDは、サングラスの奥の瞳で、返答する。俺はハテナに現代文化を説いていたにすぎねーぜ。素数なんか数えるより、自分の歳でも指折り数えてろってんだ。このサバ読み女神が。 剣呑な空気が、キッチンに充満する。シグマの髪が、光量を増し、周りに火花を生じさせる。MZDの口笛が、いつの間にかダースベーダーのテーマを重々しく奏でている。今にも、衝突しかねん状況下、突然、ハテナの声。 ( しぐま、これなあに? ) にらみ合っていた二人が同時に、ハテナを見た。ハテナの手には、袋詰めにされた玩具が握られている。袋のタグには、カラフルな丸文字で、「かみふうせん」と印字されていた。透明なビニールの中に、折りたたまれた楕円型の和紙が二つ並んで入っている。食料の中にまぎれて、明らかに浮いている一品。紙風船を見るなり、シグマの顔が一気に紅潮した。 「ば、馬鹿者! 勝手に出すんじゃない!」 慌てふためき、ハテナに掴みかかろうとする。ハテナは紙風船の袋を持ったまま、シグマをひらりと交わして、宙を飛ぶ。ハテナは、なおも不思議そうに質問を繰り返す。 ( ねえ、しぐま。これはなに? もしかして、おかし? ) 「断じて違う! とにかく、それを返すんだ!」 ( じゃあ、なんなの? ) 「ああ、もう! いいから、早く降りてこい!」 ( どうして、おしえてくれないの? ) 「降りてきたら、教えてやる! さあ、ハテナ!」 ( ……もういいもん。かみさまに、聞くから。 ) 唇を尖らせて、ハテナは、大きく弧を描き、神の前へ。急な展開に、呆然と一人置いてけぼりをくらってたMZDが、我に返る。ハテナが、袋詰めの玩具を差し出し、尋ねた。 ( かみさま、これなあに? ) 「――ああ、紙風船だよ。日本のおもちゃで、和紙を張り合わせた風船なんだ。今は折りたたまれているけど、この穴のとこから空気を入れてやると、ちゃんと膨らますこともできる」 そういって、MZDが袋越しに、楕円の中心を指差した。ふうせん、と聞いて、ハテナの笑みが、さらに明るくなる。ハテナは、風船が大好きなのだ。 それにしても、と、MZDがシグマを横目で見た。今度はシグマが、頬を赤くしたまま、気まずげに視線をずらす。MZDがにやりと笑う。サングラスの奥の瞳が、鈍い光を放つ。あからさまに、良からぬことを企んでいる笑みだった。 「しっかし驚きだなー。あの光の女神シグマ様が、まさか人間のおもちゃを買ってくるとはねー。普段は、衝動買いどころか、ハテナに泣きつかれても、お菓子や玩具を買ってやらない、あのキビシーお方が、紙風船? かなりぶっとんだチョイスだな?」 MZDはややオーバーに、腹を抱えて笑ってみせる。しかも、わざと、大きな声を出して、シグマの羞恥を掻きたているようだ。シグマは、両手でローブの裾をつかんでいる。目線は左斜め下。顔のほてりは、いまだ健在。消え入りそうな声で、反論した。 「こ、これはだな。ハテナに与えたら、喜ぶだろうと思って……」 ひどく小さな訴えの言葉を聞き、MZDの口角が、さらに持ちあがる。墓穴を掘ったな、叡智の化身。MZDは、サングラスのずれを、中指で直しつつ、相手の喉を刺すような口ぶりで、指摘した。 「違うな。最初からハテナによこすつもりなら、あんなに慌てて取り返そうとしないはずだ。今の言い訳と、おまえの一連の行動は、確実に矛盾している。これらの情報を基に、俺の推理を言わせてもらおう。シグマは、紙風船を買ってきたが、おのれのプライドの高さゆえ、その事実を隠そうとした。つまり、俺たちに内緒で、一人で紙風船で遊ぶつもりだったんだ!!」 最後の一文は、シグマを指差して、高らかに宣言した。さながら、真犯人のトリックを暴きだす、名探偵のようである。シグマが、なにか言い返そうとするやいなや、ハテナが大声を出した。 ( ええー、しぐま、ずるーい! ) 「だよなー!! 大人気ないよなー!?」 これ幸いと言わんばかりに、MZDはハテナの肩を抱き、同意を述べる。言われるがままのシグマは、肩をいからせ、拳を小刻みに震わせている。シグマが顔をあげた。完全に目が据わっていた。途端に、MZDとハテナが背筋を振るわせた。部屋の気温が、マイナス圏に達した錯覚に陥ったのだ。それほどの、殺気。 シグマが厳かに腕を組み、組んだままの手で、優雅に床を指差した。そして、す、と一筋の空気を吸い、爆発的な怒号を放つ。 「そこに直れぇ! 愚者ふたりっ!!」 言われるが否や、MZDが最高速度で、床に正座した。棒を飲み込んだように、背筋はまっすぐだ。しかし、顔面は冷や汗で塗れている。やばい。からかいすぎた。調子にのりすぎた。少なくとも、半殺しは避けられない。指の跡がつきそうなほど、膝頭を強くつかんでいると、手汗がにじみ出てきた。後悔先に立たずとは、まさにこのこと。 ハテナは、状況がのみこめず、紙風船を持ったまま辺りを浮遊していた。しかし、MZDに、いいから俺の真似しろ、と肘で突つかれ、下半身を折り曲げて、座る姿勢になった。シグマが語り始める。 「確かに、貴様の言うとおりだMZD。もう隠しも偽りもせん。ああ、そうだ。紛れも無く、私が私自身のために買ったんだ。スーパーの在庫処分の棚に置いてあった、それに心惹かれたのだ。 知力の結晶たる私は、袋詰めにされているそれを見つけて、どのような玩具なのか推理した。解答を得るのに、2秒もいらなかった。単純な道具なのだとも悟った。しかし、実際に見てみたかったのだ。それが中空を舞う姿を。楕円の和紙を張り合わせて、球体を構築するという理論も、私好みだった。構造も、理論も、その形状も、それら全てが、さぞ美しかろうと思ったのだ。だからこそ、恥を忍んで、それを買い物カゴに入れたのだ。どうしても手に入れたかったのだ。 そうとも、美しきものを求めて何が悪い! 素数も音楽も玩具も、それぞれに寄せられているのは、全ておなじ想いによるのだ! 美を探求することは、誰にも責めることのできない領域! 私が、美しいと、思った! 理由も動機も経緯も、それで十分だろう!? 違うか、MZD!」 そう言い切って、シグマは肩を上下させ、呼吸を繰り返す。それ以上の行動は、シグマは取らなかった。MZDは、完全に拍子ぬけていた。てっきり、雷の一つや二つ落とされるのだと覚悟していた。しかし、シグマは、言いたいことを全部言い切ってしまい、すっきりしてしまったようである。 当然、名指しされたMZDは、なんと答えていいのか、まったく分からなかった。ハテナと顔を見合わせた。しばしの間の後、MZDとハテナは、シグマの顔を見て、真顔で万雷の拍手を捧げた。次に拍子ぬけするのは、シグマの番だった。 「いらん! 拍手なんぞ、いらん!!」 空気をなぎ払うように、腕を振り回す。再び、顔が朱に染まっている。その様子を、MZDはのどの奥で笑いながら、眺めていた。ずいぶんとまあ、かわいい性格になったじゃないか。微かな笑い声がもれていたらしく、シグマが睨みをきかせた。MZDはすぐさま笑みを飲み込んだ。 MZDは、ハテナの手から、紙風船の袋を取った。袋を破り、折りたたまれた紙風船を、シグマに投げてよこす。両の手のひらを上向きにそろえて、和紙をキャッチするシグマ。MZDが言った。 「からかって悪かったよ、シグマ。俺も紙風船すきだからさ、なんか無闇に面白くなっちまってさ。ほら、膨らましてくれよ。紙風船の音、最高に好きなんだ、俺。」 シグマはまだ不服そうな顔をしていたが、MZDの言うとおりに、風船の穴に唇を当て、おそるおそる、息を吹き込んだ。くしゃくしゃと軽い音を立て、風船は球体になる。手の中でまるまった紙の玉。 シグマは、おもむろにそれを上へ放る。紙風船の中身は、二酸化炭素。浮くはずはなく、ゆるやかに重力に従う。シグマは、それを手のひらで受け止め、再び上へ跳ねさせた。それを数度繰り返す。そのたびに、かさ、かさ、と柔らかな紙の音がした。MZDは、その音を、目を閉じて聞いていた。シグマも、先ほどとは打って変わって、穏やかな表情になっている。ハテナも、興味津々に、上下に跳ねる風船を見つめていた。いてもたってもいられなくなり、必死に訴える。 ( しぐま。ぼくも、ぼくも。 ) 「そうか、ハテナも欲しくなったか。確かに、これは美しいものだな。MZD、もう一つの紙風船を、ハテナに渡してくれないか?」 「了ー解」 MZDがもう片方の紙風船を、ハテナに投げてよこした。ハテナはそれを上手に受け止めた。手の中の和紙は、まるで宝物のようで、ハテナの胸が高まる。風船の穴に、口をあてがい、ハテナは思いっきり、息を吹き込んだ。しかし、息が強すぎて、紙風船は大きな音を立て、割れてしまった。 シグマとMZDが、「あ」と間の抜けた声を出す。ハテナは、突然の大きな音に、ひるんでいた。手の中の風船は、縦に長い裂け目ができていて、もう膨らまない。ただの紙切れになってしまった紙風船を手に、ハテナが泣き出しそうな声で言った。 ( しぐまー……。 ) シグマは、困ったように眉根を寄せていたが、やがてそれは微笑に変わり、自分の手の中の紙風船を与えた。次は割らないように気をつけろ、と言った。シグマ自身が、驚くほど優しい声だった。
お題 → 2 与えてみる
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