「――三日月かァ」 瓦屋根の上から、呟く声。 若輩の色を残しつつ、どこか深みのある声。 世を憂うため息にも似た声だった。 ソイツはギタァを背にくくり、襟を立てた黒マントを羽織っている。 黒色の筋兜には、弦月型の前立物が、きらりと光る。 兜から前髪が一筋、斜めに流れ、眉は短い。右目に黒色の眼帯、左目は三白眼。 眼差しは刀のごとく鋭利で、とても二十に至らぬ若者には見えない。 ソイツは屋根の上に立ち尽くし、首をのけ反らせて、真上を見上げていた。 ぽかりと口を開け、黄金色の上弦の月に見惚れている。 漆黒に染まる町並みは、すっかり寝静まっていた。 人も猫も、誰も夜道を歩く者はいない。 夜陰は深く、夜風は清か。 三日月輝き、星瞬く。 雲ひとつ無い夜。 ソイツは、薄く笑みを浮かべる。それはちょうど、三日月に似た笑顔。 ゆるやかな動作で、眼帯の青二才は、背中のギタァを手に取る。 白手袋を嵌めたまま、六本弦をはじいた。 ソイツは謳った。 がなり声のような歌声が、真夜を奔る。 涼やかな風が、黒マントをたなびかせ、裏地の蒼色が、夜空に映える。 疾走感、切迫感、焦燥感、そんな言葉じゃ、この音色は説明しきれない。 自棄にも似た、我武者羅な旋律と歌声と歌詞。 ギタァを掻き鳴らし、喉奥を絞り、臓腑の底から歌いあげる。 己が辞世の唄を。 要らない、とソイツは咆える。 歌も音も夢も、要らないと叫ぶ。 有象無象を斬り捨てる歌声。 ギタァが刻むは、リズムか世界かそれとも我が身か。 無意味な言葉と音の羅列は、とち狂った己が生き様によく似ている。 インマイライフで締め括り、ソイツは謳い終えた。 再び、夜に静寂が訪れる。 己の呼吸しか聞こえない、広大な夜の空間。 否。 小さな拍手が、眼帯男の耳朶を打った。 馬鹿な、俺様が気付かなかっただと。 ソイツは、半ば信じられない心情で、後ろを振り返った。 拍手が、背後から聞こえてきたためだ。 ソイツの後ろには、影法師がいた。 漆黒の体に足は無く、うねりながら浮く姿は、なにやら幽霊を彷彿させた。 蛍火色の光をこぼしながら、影法師は、両手を合わせては離し、拍手する。 眼は無く、口は三日月のような笑みを浮かべている。 得体の知れないもの、ソイツが影法師に抱いた第一印象がそれであった。 影法師が唇を動かす。 その声は、ひどく不可思議で、餓鬼か大人か、男か女かも判別つかない。 澄みきった声が、頭蓋の中身に直接響く。 ( うた、かっこよかった。 ) 笑みながら影法師が言う。どこか満足気な笑み。 しかし、ギタァを抱えたソイツは、鼻を鳴らして言う。 「当たり前だろ、俺様はすっげーからな」 ( うん、すごーい。かっこいいー。 ) 「そうだ、よく分かってるな。で、あんたは一体何者だ? 影法師さんよ」 依然、拍手を続ける影法師に、眼帯が尋ねかける。 影法師は、ぴたりと拍手をやめ、自分を指差して言った。 ( ぼくは、かげぼうしってなまえじゃないよ。ぼくのなまえは、はてな。 ) 「ハテナァ? 随分と、珍妙な名前だな。影法師でいいじゃねェか」 ( かげぼうしのほうが、へんななまえだよ。 ) 「別にいいだろ、俺様は影法師って呼ぶからな」 ( えー、へんなのに……。ところで、あなたのなまえは、なに? ) 「俺様か? 俺様は、義族・暗黒烏が十八代目。名を、マサムネという」 ( まさむねー。 ) 「そうだ、マサムネだ」 月下にて、語らう男と影法師。 ギタァを背負い直して、マサムネはどかっと屋根の上であぐらを掻く。 ハテナは浮遊して、ソイツの正面に回り込む。 ( ねえ、まさむねは、なんで歌っていたの? ) 「あァ。あれはな、辞世の唄だ」 ( じせいって、なに? ) 「この世に“おさらば”することよ。とどのつまり、死ぬことさ」 死。その言葉に、ハテナが息詰まったように見えた。 それもそうだ、辞世なんて言葉は、普段は使わない。 対面する三白眼の男は、例外だが。 ( まさむね、死ぬの? ) 「――死なない人間はいねェだろ?」 ハテナの不安げな問いを、マサムネは一笑に付す。 暗に死ぬことを宣言されたためか、ハテナは首をうなだれ、黙り込む。 そんな姿を前にされては、さすがのマサムネも罪悪感を感じずにはいられない。 頬を人差し指で掻いてから、気まずそうに言葉を付け足した。 「……あー、でも安心しろよ。すぐに死ぬわけじゃねェから」 ( ほんと? ) ハテナは顔をあげ、表情を明るくする。 極端なやつだ、とマサムネは胸中で苦笑する。 咳払いを一つしてから、マサムネは言葉を続ける。 「いやァ、厳密に言えば違うかな。すぐに死ぬかどうか、俺様にも分からないってことだ」 ( ……? ) 「……こら、そんな素直に分かりませんって表情するなって。よーするにだなァ――」 額を押さえ、ため息を一つ吐いてから、マサムネは語りはじめた。 「俺様は、明日死んでもいいと思えるように生きている。未練も無念も残したくない。その思いだけで生きている。だからこそ、やりたいことは、その時その瞬間にやる。 決して、できる善を見過ごさない。目についた悪は、必ず成敗する。喰いたいもんがあったら、その場で喰う。歌いたいと思ったら歌う。旋律が思い浮かべば、すぐさま歌作り。 一秒たりとも後悔しないために。いつ死んでもいいように。俺様が常に俺様であるために生きているんだ」 夜の町に、マサムネの持論が響く。 鉄芯が通ったような、真直ぐで力強い声。 左の眼には強固な意志が宿っていた。 ハテナは、辞世を歌った男の人生観を、聴き入っていた。 ふと、その三白眼が伏せられる。 「――だが、そいつも昔の話さァ」 皮肉気に歪められる口元。 笑おうとしたのか、歯を喰いしばろうとしたのか、当人にも分からなかった。 ふいに、ハテナから視線を上にずらし、マサムネは真上を見た。 三日月を睨みつけながら、眼帯男は声を吐く。 「満たされねェんだよ、何をやっても。俺様は俺様として、生きようとしただけなのに。やりたいことをどれだけやっても、どんどん胸ん中ががらんどうになって、全部が全部、虚しく見えてくる。 なにせ、俺様が生きてても、世界の半分を見ることもできない。俺様が力を尽くしても、世界の半分も救うことができない。気がつきゃ、世界の半分が、俺様を嘲笑っていやがった。気がつきゃ、世界の全部が嫌になっていた。全てが無意味で無価値にしか見えねェ。俺様自身も、俺様以外も、全部だ。 だから、今じゃ義族の仕事も全然やっちゃいねェ。名前だけの義族、名ばかりの正義の代理人だ。今では、見回りって名目の、無駄な深夜徘徊しかしてない。いつしか得意の歌作りもやめちまった。――大好きだったんだけどな、本当は」 歌の話をしたときだけ、マサムネの眼がおだやかに細められた。 ハテナは無言で、話に耳を傾けている。 左の三白眼は、未だに金色三日月を凝視。 眉根を寄せ、苦汁を残さず飲みほしたような顔で、マサムネは断言した。 「だから、もう何も要らない。歌も音も夢も何もかも。生きてても決して満たされぬなら、俺様の周りの有象無象は全て無意味だ。花、鳥、風、谷、月、砂、鉄、空――、この世にある全部が、俺様にとってもう要らないものだ。 もはや俺様は、生きながらにして、ただ死を待つ身。そういうわけで、いつ死んでもいいようにと、辞世の唄を、毎夜毎夜歌い続けている。自害しないのは、俺様の最後の矜持だ。十八代目が自殺して、暗黒烏が廃れるなんて、格好がつかねェからな」 喉の奥でソイツは笑う。何も可笑しくないのに。 真上の三日月は、何も言わず微笑を湛えている。 ハテナは言葉を発さない。 マサムネは、左目を閉じ、鼻で笑う。 片目をつむったまま、顔を下げる。 「悪ィな。長いおしゃべりに付き合わせちまった。まァ、これが、俺様が辞世の唄を歌う理由――」 目を開いた瞬間、マサムネは言葉を失う。 正面に浮く影法師の顔に、極彩色の花が咲いていた。 否、花に見えたそれは左目だった。 ハテナは、花弁開く左目から涙を零していた。 ぽろりぽろりと零れ落ちるそれは、屋根瓦に水玉模様を作る。 マサムネは焦った。同時に、理解に苦しんだ。 今の話に、泣くような要素があっただろうか。 いや、なにも思い当たらない。 ただ、自分が日夜考えていることを、述べ連ねただけにすぎない。 マサムネは、慎重に、されど大胆に尋ねる。 「……なんで泣いてんだよ、影法師」 ( ……だって、 ) 涙も拭かず、ハテナは言った。 ( ほんとうは欲しいものを、いらないって言うのは、すごくつらいことだよ。 ) 二人の間を夜風が通りすぎた。 マサムネの前髪と、マントが風になぶられる。 マサムネは、左目を見開いたまま、二の句を告げられない。 ハテナは泣きながら続ける。 ( まさむねは、すごくかっこいいよ。うたも、いきざまも、まさむねも。 でも、かっこつけすぎだよ。 ほんとうは、いらなくないんでしょ、ぜんぶ。 ほんとうにいらなかったら、きっととっくに“じせい”してるもん。 ) マサムネは動けなかった。 息すらできない。 がらんどうのはずの胸に、ずきりと痛みが走る。 不快ではあった。 図星と認めたくないが、限りなくそれに近いものが、心を掻き乱す。 ハテナの言葉は、涙は、未だ止まらない。 ( まさむねは、まだなにも、いらなくなってないんだよ。 うたも、おとも、ゆめも、はなも、とりも、ぜんぶいらなくないんだよ。 なのに、いらないって言うんだもん。 いまにも泣きそうな顔して、いらないって、うたうんだもん。 悲しくてつらいなら、いらないなんて、うそつかなくてもいいのに。 泣くのをがまんしながら、うたわなくてもいいのに。 ) マサムネは、ハテナの言葉を、真っ向から否定したくてたまらなかった。 「そんなわけあるか」と笑い飛ばすか、「馬鹿を言うな」と怒鳴り散らしたかった。 最悪、「気にいらねェ」と目前の影法師を、刀で斬り捨てることだってできた。 それなのに、舌も唇も腕も体も、決して動くことはなかった。 しゃくりあげながら、唇を震わせながら、ハテナは切に請う。 ( ねえ、おねがい。 ぜんぶ心からあいしてるのに、いらないなんて、言わないで。 ) 街は夜は月は、ただひたすら静かだった。 しんしんと心に積もるこれは何だ。マサムネは自問するが、答えは分からない。 ただ分かったことは、目の前の影法師が、致命的なまでに純粋な心の持ち主だということ。 ハテナはそのまま言葉がつまってしまう。下を向いて、肩を震わせすすり泣いている。 マサムネは、ふ、と息を吐いた。腕を伸ばし、白手袋の親指で、ハテナの涙を拭ってやる。 同時に、自分自身にも思いがけない言葉が、口をついて出た。 「すまねェな、影法師。俺様の代わりに泣いてくれたのか」 ( ……。 ) ハテナが顔をあげる。左目の極彩色の花弁が、涙に濡れてきらきらと輝く。 花が、綺麗だと思った。 あァ、確かにまだいらなくない。 涙が拭きとられ、ハテナがまばたきすると、花弁と左目は消えた。 なぜだろう、ハテナの言葉を聞いたせいか、持論を存分に語ったせいか、随分すっきりした。 こんなにも澄んだ心地は、久方ぶりだった。 マサムネは微笑を浮かべながら、ハテナの頭を撫でてやった。 ハテナはもう泣いていない。嬉しそうに、頭を撫でられている。 「なァ、泣かせちまった詫び代わりに、俺様にできることがあったら、言ってくれないか。今までサボタァジュにかまけていたが、これでも暗黒烏を継承する男だ。力になってやるぜ」 ( ほんと? じゃあ、えっとね……。 ) そういって、ハテナは背中の方に手を回す。 笑顔を向けて、マサムネに言う。 ( あのね、ぼくね、かみさまのおてつだいしてるの。 おんがくが好きな人に、これをわたすように言われたんだ。 ) ハテナが差しだしたのは、音符のシールが貼られた銀色の封筒。 18回目のポップンパーティーの招待状であった。
お題 → ナンセンスの天秤は傾く
『選択式お題 色は匂えど散りぬるを』 配布元>>as far as I know
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