満月の夜は明るい。夜空は青みがかって、インディゴに染まっている。月には、太陽のように目を刺すような光量は無いけれど、目を縫い付けられるような存在感がある。月を見ると、目が離せなくなる。月を見ている。逆に、月に見られている。満月は、街を見下ろしていた。住宅街の道路に、黒猫と少年と影のようなものがいた。
 少年の真正面に、得体の知れない黒い影のような物体。輪郭は浅緑色に光り、風にたなびく布のように体をくねらせている。小さな子どもの目には、幽霊にもお化けにも見えるかもしれない。このような造形の物体が、暗闇から現れたら、悲鳴の一つや二つはあがることだろう。しかし、少年は、不気味がる様子も、怖がる様子も、怪しがる様子も無い。少年の問いに、ハテナは答えた。男か女か、大人か子どもか、判別のつかない、透明の声で、答えた。


 ( ぼくのなまえは、はてな。 )
 「ハテナか。誰がつけてくれた名前だい?」
 ( わかんない。おぼえてない。思いだせない。 )
 「そう。それは残念」


 猫の背をなでながら、少年は言った。ちっとも残念そうでない言い方だった。今度は、ハテナから話しかけた。ハテナが質問をする番だった。


 ( あなたのなまえは、なに? )
 「僕は、moon_child。ムーンチャイルドとも、月の子供とも、ムンチャとも、言い換えてもいい。」
 ( だれが、つけてくれたなまえなの? )
 「僕がつけた名前だよ。昔は別の名前もあったけど、それは嫌いだったから、自分でつけちゃったんだ」
 ( そうなんだ。むんちゃ。はじめまして、よろしくおねがいします。 )
 「ハテナは、挨拶が上手だね。こちらこそ、よろしく」


 そういって、ムーンチャイルドは、ぺこりとお辞儀をする。ハテナも真似をしてお辞儀をする。猫が鳴く。顔をあげたムーンチャイルドは、ハテナに問いかけた。


 「ところで君は、こんな夜更けに何をしているんだい?」
 ( 分かんない。まだ夜なのに、おきちゃったの。でも、ねむたくないから、ねれなくて、みんなねてるから、何をしよう、ってなったの。それで、外に出たの。 )
 「そう。まだ眠くならない?」
 ( うん。 )
 「じゃあ、一緒に歩こうか。体を動かしてるうちに、眠くなるかもしれない」
 ( うん。 )


 そう言って、月の子供は歩き出す。靴底が、コンクリートをこする。ハテナは、くるりと身を翻し、少年の後ろをついていった。
 住宅街の全てが夜色であった。アスファルトもフェンスもアパートもマンションも、横断歩道も駐車場も一軒家も空も、いずれも暗がりに支配されていた。
 唯一、道路のわきでは、等間隔に立ち並ぶ街灯たちが、夜に染まらぬよう、明かりを絶やさずにいる。しかし、辺りは圧倒的な暗闇。電灯たちは、おのれの足元を照らすので、精一杯だった。そんな彼らの頭上で、満月が煌煌と輝いていた。ハテナが月の子どもに質問した。


 ( むんちゃは、何をしていたの? )
 「猫と歩いてたんだよ。夜歩きは楽しいからね。夜空を見上げながら歩いていて、ふと足元を見たら、猫の姿が見えなくなって、それで、猫を探していたんだ。猫は今まで、僕から離れることは、決してしなかったから、びっくりしたよ」


 ムンチャがそういうと、猫がにゃあと鳴いた。ハテナは、猫が何を言おうとしているのか、分かった。喉から発声される声はもちろん、生命が発する音を聞けるハテナは、たとえどんな相手であろうと、その意思を汲み取ることができる。ハテナは、猫の言ったことを伝えた。


 ( まちがえたんだって。ぼくとむんちゃを。 )
 「やっぱりね。その可能性が高いと思ったんだ。猫を見つけてくれて、ありがとう。ハテナ」


 礼を言われて、ハテナは照れくさそうに、指で頬を掻く。ムンチャはどんどん進んでいく。ハテナもついていく。左には、フェンスで囲まれた駐車場。白い砂利の上に、自動車が整列して、息をひそめて眠っている。
 腕の中の黒猫が、あくびをした。口を三角に開いて、牙をのぞかせる。ハテナが猫のあくびを覗き込み、ムンチャの方を向いて尋ねた。


 ( ねこ、すき? )
 「まあね」
 ( そのねこは、むんちゃの? )
 「誰のものでもないよ。僕のものでもない」
 ( ねこの名前は、なに? )
 「さあね。ねこには、ねこの名前があるかもしれないから、僕は“猫”とだけ呼んでいる。君は“猫”が好きかい?」
 ( うん、すき。 )
 「じゃあ、僕と同じだね。」


 夜空に二つの声が響く。その声を聞くのは、少年と黒い影と黒い猫、それから夜空の星と月。深夜が街の上に、静かにたたずんでいる。白いシャツの背中が、ハテナに問いを投げかけた。


 「君は、どこに住んでいるんだい?」
 ( かみさまのいえだよ )
 「へえ、すごいところに住んでるね」
 ( むんちゃのおうちはどこ? )
 「どこにもないよ。昔はあったけど、出てったんだ」
 ( じゃあ、どこでねてるの? )
 「昼間に、霊園のすみっこで寝てる。真昼の墓地って、驚くほど人が来ないから寝やすいよ。墓石を背もたれに、陽光を浴びて眠るんだ。なかなか心地いいよ」


 ムンチャは弾むように言う。どこか楽しげな声音だった。しかし、ハテナは首をかしげていた。何かが、腑に落ちないらしい。再び問う。


 ( どうして、そんなところでねるの? べっどや、まくらや、おふとんで、ねないの? )
 「そんなの無くても、寝ることはできるよ。僕が霊園で寝る理由は、人に見つからないためだよ」
 ( なんで、見つからないようにしてるの? かくれんぼしてるの? )


 ハテナの問いに、ムンチャが足を止めた。そして、組んでいた両腕を解いた。それと同時に、猫が腕から降りて、音も無く道路に着地する。猫の足元には、影。ムンチャの影が、夜の闇よりも色濃く存在していた。
 ムンチャは、背を丸め、体を震わせていた。こみ上げる笑みを押さえ込んでいた。ふふふ、あはは。くぐもる笑い声。ムンチャが振り返る。三日月の笑みが、意味深に捻じ曲がっていた。月の子供は、はっきりと言った。


 「そうさ。僕は、世界と、かくれんぼしているのさ」


 瞬間、全てのものが沈黙した。ラジオのノイズのような地上の音が、ぶつりと途切れる。自動販売機のライトの音も、遠くから聞こえる誰かの話声も、大通りを通る自動車の音も、草葉が擦れ合う音も、虫の音も、風の音も、ムンチャの断言を境に、何も聞こえなくなった。静けさ漂う深夜は、無音となった。夜空に浮かぶ満月の呼吸が、地上にまで聞こえてきそうなほどに。何度も質問をしていたハテナは、言葉を失っていた。猫も押し黙っていた。ムンチャだけが、歌うように語った。


 「僕は失踪しているんだ。家出とも失跡とも言い換えていいけど、とにかく誰にも行方が知れないように生きてるんだ。
 僕はいま14歳で、学校に行かなきゃいけない年齢の僕が、真昼間の雑踏なんかを歩いていたら、誰かに声かけられて、補導されて、家に戻されちゃうよね。それがイヤだから、僕は昼間の街を歩かないんだ。太陽が昇る時間帯は、ひと気の無いところに隠れて、真夜中になってから、猫といっしょに歩くんだ」


 そういって、ムンチャは腕を広げてくるりと回る。そのまま、道路のうえの少し盛り上がった白線を踏み、両腕を水平に伸ばし、白線の上を歩く。綱渡りをするように、灰色のアスファルトに落ちないように、慎重に一歩一歩進む。猫が後に続く。ハテナは浮きながら進む。ムンチャが、言葉を続ける。


 「夜は素敵だよね。僕は夜が好きだよ。冷えたアスファルトに寝転がって、星空を眺めたり、猫と石塀の上を、歩いてみたり、黒色の川に揺らぐ、街灯の光を見つめたり、高いところに登って、ネオンの街並を見下ろしたり――。夜空の下に、月の下にいると、世界に僕と猫だけしか存在してないような気になるんだ。夜は、素晴らしく尊い時間なんだ」


 白線の先に交差点があった。四方向に立つ信号機が、色を変え、点滅する。車など一台もないのに、直立する三色ライトは、おのれの務めを果たしている。正面の、円形に密集した発光ダイオードの群れが、赤なのにも関わらず 、ムンチャが歩き続ける。横断歩道の白い縞模様の上を、歩く。少年の後ろを、黒い体をした一匹と一人(?)がついていく。
 対岸のコンクリートにたどりつくと、月の子供は普通に歩き出す。濃いグレーの道路を歩くムンチャ。歩きながら、少年が言う。


 「いつからかは覚えてないけど、いつの間にか僕は、世界が大っ嫌いになっていたんだ。要は、大人とか未来とか国とか世界とか、そういうのがみんな嫌になっちゃったんだ。みんなみんな、インチキとか、うそっぱちとか、屁理屈ばかり言ってるようにしか見えないんだ。血反吐が出るほど、嫌気がさしたんだ。
 だから僕は失踪することにしたんだ。家も学校も名前も捨てて、僕は世界から認識されないように、注意深く生きることにしたんだ。昔の僕を抹消して、moon_childとして生きるんだ。世界にまるで存在しないかのように、生きていたいんだ。それが僕の望みであり、唯一の生きがいなんだ」


 月の下で、少年が言い続ける。ときおり振り返る表情は笑顔。何を考えているか分からない笑み。三日月の笑み。ハテナはそれを黙って見ていた。聞いていた。猫も鳴かない。ずっと黙っていたハテナが、たった一言だけいった。無垢の声が、夜空に響いた。


 ( それって、とてつもなくさみしいことだね。 )


 月の子供は、振り返らなかった。肯定も否定もしなかった。代わりに空を見上げた。空は徐々に白み始めていた。夜明けがくる。家屋の壁と屋根が照らされて白く光る。雲の陰影が濃くなる。街の向こうから、朝陽が迫ってくる。夜空に溶け込んでいた電線が、くっきりと姿を現す。鳥が、空を横切って羽ばたく。カラスの鳴き声が、遠くから聞こえてきた。
 ムンチャが振り返らずに言った。


 「夜が終わる」


 朝陽が二人と黒猫を照らす。ハテナが大きくあくびをした。ようやく、眠気がやってきたらしい。ムンチャが、ハテナに向かって言った。


 「夜歩きも、そろそろお開きにしよう。僕は、どこかへ寝に行くよ。君もそろそろ帰ったほうがいいんじゃないか?」
 ( うん、そうする。ムンチャ、たのしかったよ。ありがとう。 )
 「僕も楽しかったよ、ハテナ。それじゃあ、またの機会に」
 ( またね。ばいばい。 )


 ハテナが手を振って、別れを告げる。ムンチャは、それ以上何も言わなかった。代わりに黒猫が、にゃあと返事をした。ハテナが空を飛翔する。漆黒の流星が、尾を引いて、朝焼けの空を飛んでいった。
 ムーンチャイルドは、ハテナの姿が見えなくなるまで、空を見ていた。そして、踵を返し、寝床を探しに、歩き始める。数歩あるいて、ふと気がついたように呟いた。


 「そういえば、ハテナの声、どこかで聞いたことがある気がする」


 しかし、月の子供の呟きに、返事をする者はいなかった。黒猫がいなかった。月の子供の足元に、長く伸びる影があった。黒い影は、人間の形でなく、猫の形をしていた。
 満月は、空が明るくなってからも、白き姿を輝かせていた。朝が始まった。



 まさかのムンチャ話でした。当家のムンチャは、家出少年です。14歳設定は、中学2年生を意識しました。ムンチャが絶賛厨ニ病です。あの月っ子は、反社会的思想を抱えてるような気がしてならないんだ。それから、我が家のムンチャは不思議少年です。ムンチャは常人じゃないような気がしてならないんだ。
 夜の散歩は、高校時代に二回だけ経験があります。ひたすらあてもなく、近所をぶらぶらしました。で、12時ごろに家に帰ろうとしたら、家の鍵閉まってて、鍵持ってなくて、つまり家から閉め出される形になりました。で、あえなく朝6時まで放浪したことがあります。数少ない呆の武勇伝です。異論は認めます。









2008/11/15 Akire




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