「――なんでだ?」 突然すぎる質問に、おれは溜め息を吐いた。 相変わらず、この天才は言葉が足りなすぎる。頭の回転が早いのを抜きにしても、これはない。そもそも何に対しての質問なのか、全く分からない。 視線を向けると、スモークは壁に向かって、床に直接あぐらを掻いていた。ペンを握りしめ、一心不乱に、壁に音符やら休符やらを描き殴っている。そう遠くない内に、おれの山小屋は楽譜そのものにされてしまうかもしれない。 ギターのチューニングを中断し、うんざりしながらも、一応尋ねてみた。 「なにがですか?」 「なんで、お前は一人なんだ?」 「……は?」 「だから、なんでお前一人で、こんな雪山に住んでんだって聞いてんだよ」 おれは思わず額を押さえる。最初からそう聞いてくれれば、無駄な混乱をせずに済んだのに。 しかし、珍しいといえば、珍しかった。 この天才ピアニストが、おれみたいなのに興味を向けるなんて。 今まで、この人の話は、亜空間とか音楽とかよく分からない哲学や思想とかが、圧倒的に多かった。だから、こんな普遍的な質問をしてくるなんて、正直意外だった。 おれは、六本の弦に目線を落とし、事も無げに言葉を紡ぐ。 「歌うためですよ」 「……あ?」 「歌うために、一人でここに住んでるんです」 おれの答えを聞くと、楽譜を書きつづる手が止まった。訝しげにこちらを振り返り、眉間に皺を寄せている。 「よく分からん。もっと噛み砕いて説明しろ」 「……天才なのに?」 「天才だって分からん時は分からんものだ」 「へえ……」 「生憎、俺は全知全能の神じゃないからな」 そう言って、スモークはペンを床に置き、おれの方を向いて座り直す。 その姿を見て、おれは心底驚いた。 この人の両手は、四六時中、楽譜を書くか、無いはずのピアノを演奏している。喋るときも、食べるときも。ついこの間、夜中に目が覚めた時、隣で寝ていた彼の十指が、鍵盤を叩くように動いていたのを見た。夢の中で演奏するほど、この人が音楽を愛していることを、おれは知っている。 だから、この人が曲作りも演奏もせず、会話に集中する姿を見せるなんて、それこそ天変地異に等しかった。 言葉を失うおれを見て、スモークは若干苛立ちを籠めた声を出す。 「エッダ。説明しろよ」 「え、あ……」 「返事は?」 「……、はい」 返事してから、しまったと思った。また上手い具合に嵌められた気がする。 自分のことを喋るのは、ものすごく気が進まない。でも、ここで黙ってても、彼はどんな手を使ってでも、それこそ執念深く聞きだそうとするだろう。おれは乾いた唇を舐めてから声を出す。 「じゃあ、おれにも教えてください」 「ああ? 何を?」 「こんな雪山に、あんたみたいな人が、一体何しに来たんですか?」 「またそれか? 前も答えただろう、曲作りに来たんだよ」 「言葉が足りません。凡人でも納得できる説明をしてください」 おれが尖った声を放つと、彼は気まずげに髪を掻き乱す。 火の点いていない煙草を噛みしめながら、彼は溜め息と共に言葉を吐いた。 「吹雪の曲を作りたくなったんだよ」 「……吹雪」 「ああ、アジアには雅楽っていう音楽ジャンルがある。あれは、自然を音楽で表現するという試みなんだ。だから、俺も唐突に、それをやってみたくなった。ピアノ一つで、自然を、世界を、表現しようと思った。それで、自然をテーマにした曲を50強は作った。次は吹雪の曲を作りたくなった。だから、年中吹雪いているこの雪山に来たんだよ」 スモークは一旦、煙草を指で挟み、口から離した。火が点いていたら、紫煙をくゆらせているところだろう。 彼と出会った日のことは、よく覚えている。 いつも通り、吹雪の中でギターを弾き歌っていた日のことだ。膝まで雪に埋まった頃、帰ろうと思って踵を返したら、彼が倒れていた。半身雪に埋まり、ひどく冷たくなっていたが、息はあった。見殺しにするわけにもいかず、家に連れて行った。結果、早一ヶ月居座られている。 「じゃあ、この一ヶ月間、ずっと吹雪の曲を作ってたんだ……」 おれは壁や家具に書かれた楽譜を見ながら、呟いた。なんの曲か分かった途端、今まで落書きにしか見えなかった音符の羅列が、ひどく尊く見えてくる。 だが、一瞬でも憧憬の念を感じたおれに、彼は信じられない言葉を漏らした。 「いや、そんなもん作ってねぇよ」 「…………は?」 「今書いているのは、エルゴ球を表現した曲でな、大雑把に言えば亜空間の入り口だよ。亜空間と元の空間の狭間に立つのをイメージして、高次元な世界に引きずり込まれそうになりながら、片足は元の世界についたままで、浮遊感とも不安感の最中で一種の忘我体験を……」 「あの、ちょっと待ってください」 右手を出しながら遮ると、彼はあからさまに不機嫌そうな顔をする。 これからが良いとこなのに、とでも言いたげである。 でも、おれは構わず、続けて尋ねかけた。 「なんで、作んないんですか? せっかく雪山に来たのに……」 「そりゃあ、作る必要が無くなったからだよ」 「……え」 「すでにお前が、吹雪の曲を完成させていたからな」 指を差し、彼は口元を歪めて笑う。 一本の矢に、射抜かれたような気分だった。 呼吸ができない。この人は何を言ってるんだ。 「あの、言ってる意味が……」 「言葉の通りだよ。お前が、吹雪の曲を完成させてたんだ。俺が作るまでもなく、完璧な曲を」 おれの言葉をさえぎり、彼は独白にも似た語りを続ける。 黒眼鏡の奥の瞳は見えない。 彼が何を考えているのか分からない。 「あの日、吹雪の中を歩いているとき、風の音に混じって、ギターの音と歌声が聞こえてきた。本当に驚いた。俺が身に受けている吹雪が、そのまま音楽になっているような錯覚を覚えた。無我夢中で、音楽の震源地を探した。そこにお前がいた。白い息を吐きながら、無心に歌うお前がいた。その歌声は、どこに向かうでもなく、吹雪に溶け込んで、針葉樹林の隙間を駆け抜けていた。率直に言うと、感動した。俺以外に、こんな音楽が作れるやつがいるなんて、思わなかった」 歌うように彼は言葉を紡ぐ。 おれは俯いて、自分のつま先を見る。 「目を閉じれば、強風とともに向かってくる雪の大群が見える。耳を澄ませば、雪の結晶が、一粒一粒見えそうだった。ただ吹き続けるだけでなく、一瞬風がやみ、雪面がきらきらと光る様子。風が吹きはじめ、積もった雪の粒が舞いあがる様子。どんどん雪が降り続けて、全身が埋まってしまいそうな感覚。雪風になぶり続けられて、冷えた体が麻痺していきそうな感覚。 旋律、コード、リズム、強弱、――音楽が音楽であるための要素全てが、吹雪という現象を見事なまでに再現していた。非の打ちどころが無いってのは、まさにこのことだと思ったよ」 おれは思わず耳を塞ぐ。 この人が何を言っているのか分からない。 おれはただいつも通り歌っていただけだ。 なんでそんな風に聞こえるんだ。 なんでそんな風に感じ取るんだ。 「……やめてください、聞きたくない」 「おいおい、お世辞なんかじゃないぞ。俺がそう思ったから言ってるんだ」 「ほんと、お願いですから……」 懇願するおれにも構わず、彼はとんでもないことを口走る。 「なあ、エッダ。一緒に、山を降りないか?」 その声音は、酷く優しく、残酷に聞こえた。 まるで、世界の終末を宣告するようで。 「お前の作った音楽を、こんな雪山だけに響かすなんて勿体ねぇだろ。 もっとたくさんの人に聞いてもらいたいと思わないのか?」 馬鹿げたことを言わないでくれ。 あんた天才なんだろ? 寝ぼけたことを言うな。 誰がいつそんなことを望んだ。 「俺の紹介があれば、ステージで演奏することもできる。人前に立つのが嫌なら、CDなんかで音楽を披露するのもいい。もっとも俺は、コンサートなんて性に合わなかったから、そっちのが主流だがな」 やめてくれ。 聞きたくない。 夢みたいなこというんじゃない。 脳がかじかんだように、まひしてくる。 「エッダ、返事は?」 「おかしくなりそうだ」 「……あ?」 「そんなつもりじゃないんだ」 「何言って……」 「そんなつもりで歌ってたわけじゃない」 立ち上がり、吐き捨てるように言う。 ギターを握りしめる手に力がこもる。 戸惑う天才を睥睨し、おれは言った。 「おれが歌うと、みんな困るんだ。おれの歌声は、吹雪を呼ぶから。 おれはただ歌いたかったのに、みんな『歌うな』って言うんだ。 しまいには、『そんなに歌いたいなら出て行け』って言うんだ。 だからおれは出て行った。 歌うために一人になった。 だからここを離れるつもりは無い。 凍死するまで、ここで歌い続ける。」 そう言って、おれは山小屋を出て行った。 スモークが何かを叫んでいたが、扉を開けた瞬間、吹雪で聞こえなくなった。 豪雪の中、ギターを抱えて、おれは歩く。 雪降る森を、どこまでも歩き続ける。 いつもの歌を口ずさむ。 吹雪が強くなる。 手がかじかんで麻痺してくる。 眠気すら感じる。 血が凍りつきそうだ。 おかしくも無いのに、笑えてきた。 すでにおれは狂っているのかもしれない。 こんなおれが、どこに行けるというのだろう。
お題 → 過大評価もいい加減にしてくれ
『選択式お題 色は匂えど散りぬるを』 配布元>>as far as I know
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