ある日、ハテナが、おまじないを覚えて帰ってきた。 紗のごとき薄雲は、厳かな橙色を帯びて、夕空に浮いている。日が暮れかけてるにも関わらず、けだるい熱気はいまだ健在。 台所のシンクの前にシグマが立っていた。その細い首筋を流れる汗を、果物ナイフを持ったまま、右の手の甲でぬぐう。左手には、むきかけの皮がぶらさがった梨。冷蔵庫に入れておいた果実は、冷たく心地よかった。 器用に刃物を繰る指は、長く細くたおやかで、白の肌は陶器のようなまろみと艶をたたえている。華奢な肢体、通った鼻筋と尖った顎、シアンの瞳は精練な輝きを放っている。女神の名にふさわしき美貌と精悍さである。 しかし、その姿は、やや奇抜。上等な絹の衣装の上から、黄色のエプロンを身につけ、閃光を放つ豊かな髪を、銀のコンコルドでアップにまとめている。矛と盾と兜は、装着していない。調理に邪魔だということで、外しているのだ。凄然な美しさを留めながらも、その所帯じみた姿は、どこかちぐはぐであった。MZD曰く、最近エプロン姿が板についてきたな、とのことである。ニヒルな笑みとともに言われたセリフの真意は、皮肉か、本心か、光の女神にすら定かではない。 と、外から、電子的な鐘の音が聞こえてきた。夕刻を告げる音である。シグマは、梨を剥いていた手を止めた。首を巡らせ、居間の掛け時計を確認する。五時半だった。外は夕焼け色に染まりつつも、まだ明るい。季節は初夏をとうに過ぎ、日が落ちるのも遅くなっている。網戸の向こうからは、ヒグラシの鳴き声。隣室のリビングでは、星のひとの持つテレビが、天気予報を映していた。明日も、暑くなるらしい。 ため息をひとつ吐く。鐘が鳴る前には家に帰るように言っているのに、あの二人ときたら毎度毎度このザマだ。しかしシグマは、二人の安否を心配しているわけじゃない。一方はポップンワールドの神、もう一方は神に匹敵するほどの力を持つ者。事故も、災害も、人攫いも、通り魔も、変質者も、あの二人にとって脅威ではない。遭遇したとて、笑い話にすらならないほど瑣末。光の女神が心配したところで、杞憂に終わるも同然なのだ。 門限を設定したのは、ハテナのためだ。ハテナは無の世界から解放されたばかりで、有の世界に関する知識が極端に欠けている。常識やルール以前に、善悪の基準すら皆無という危うい状態。だからこそ、人界に住むことで、それらを身に着けてもらおうと、ハテナを交えての共同生活を始めたのだ。 ここでシグマ、二度目のため息。なのに、門限すら守れないとなると、行く先が不安で仕方が無い。保護者と称してハテナについて行ったMZDも、その役割をきちんと果たしているのか不明だ。不安と問題要素はつもるばかり。シグマは、梨を剥きつつ、心の内で、決意を新たに固めた。今日という今日こそ、ハテナをしっかりと“しつけ”なければ。 刹那、指先に痛みが走る。同時に、リボンのような梨の皮が、プツリと途切れ、まな板に落ちた。シグマは顔をゆがめつつ、手元を見る。左手の、親指の腹に、斜線の切り傷としたたる鮮血。考え事をしながら刃物を扱うものではないな。反省しながら、シグマは傷を見つめる。けっこう深く切ってしまったらしい。パクリと開いた傷口から、皮膚の断面が垣間見える。傷口の脈打つ感覚を、いやに鮮明に感じた。 女神といえど、血肉は在る。ただ、人間やその他の生命体と比べて、極端に、頑丈で強大な力を秘めているにすぎない。もちろん、従来のシグマならば、刃物ひとつで肉体を傷つけられることはありえないことだ。しかし、シグマが人界で生活するにあたって、その強大な力を制御する必要があり、肉体の耐久度もそれにならって、低下しているのだ。 とりあえず、患部の洗浄をすまそうと、蛇口に手を伸ばした。そのとき。 ( しぐまー ) 突然、背後から声と抱擁。ハテナだった。突進のごとく背中に追突され、首に両手を回される。気配を全く感ぜられなかったため、シグマは不意をつかれて、うぬぁッと悲鳴をあげた。 予想外の事態の最中でも、まず何から注意すべきか、シグマは考えを巡らせる。相変わらず帰りが遅いぞ。鐘の音は聞こえたのか。 「ハテナ。帰ってきたら、まずは何て言うんだ?」 ( えっと……、 ただいま。 ) 「それで良い。おかえり、ハテナ」 右肩から覗きこんでくるハテナが、パァッと満面の笑みを浮かべた。シグマは、それ以上の忠告は口に出さなかった。まだまだ課題は多いが、少しづつ達成していけばいい。シグマは頭を撫でてやろうと、左手を伸ばしかけ、思い出す。指を負傷したのだった。宙で止まった手を、ハテナは怪訝そうに見て、異常に気づいた。 ( しぐま、ゆび どうしたの? あかいのが、でてるよ? ) 「梨を剥いているときに切ってしまってな。出血したのだ」 ( ……?…… ) 「まあ、要するに怪我をしたんだ」 手を広げて親指を見せてやると、ハテナは興味深そうに見つめる。シグマの肩に手をかけて、首を伸ばして、まじまじと傷と血液を観ていた。ハテナは親指に手を伸ばそうとして、その手を止めた。そして、尋ねた。 ( しぐま、いたい? ) 「いや、たいしたことは……」 ( ぼくが おまじない してあげるよ ) 唐突な提案に、シグマの目が点になる。おまじない、だと? また、MZDから余計なことを吹き込まれたのだろうか。一体何をするつもりなんだ。 ハテナは、肩から飛び上がり、軽やかに宙返りをして、シグマの真正面に静止した。そして、黒い色の小さな手のひらで、シグマの左手を撫で始める。傷口に触らないように、手の甲や指を小さく円を描くように撫でながら、念じるように、つぶやく。 ( いたいの いたいの ) 突然、その手を ぱっ と上空へ。 ( とんでいけ ) ハテナは、おまじないを唱えた。シグマは、呆気に取られていた。 今のが、おまじないなのか? 口には出さなかったが、シグマは思わずツッコんだ。もう少し長い呪文を連想していたゆえ、拍子抜けしてしまったのだ。むしろ、おまじないをしたにも関わらず、何の効果も現れなかったことが不可思議である。傷を治癒したり、回復力を高めるといった効果では無いのか。ハテナは得意げに尋ねた。 ( しぐま、いたく なくなった? ) 無垢の声で聞かれ、シグマはつい頷きそうになる。しかし、踏みとどまった。正直、脈打つような痛覚は、いまだ現存している。もし、おまじないの効果が、そのセリフの通り、痛みを消すというものなら、これでは紛れもなく失敗である。しかし、シグマは考えた。もしここで、まだ痛い、とでも言ってしまったら、ハテナはせっかくのおまじないが効かなかったことに、悲しむのではないだろうか。 否。今のは、まじないというより、催眠暗示に過ぎないじゃないか。この程度の子供だましが、まじないとは、認められない。ゆえに、ここでハテナを気遣って、嘘でも痛みがなくなったと答えてしまったら、この不明瞭なまじないの効果が、実証されたも同然となってしまう。それだけは断じて避けたい。とにかく、事実を伝えるべきだと判断し、シグマは勇気を出して言った。 「……いや、あまり、効いてないみたいだが」 ( そうなの? じゃあ、もっと おまじない してあげるね ) シグマは、思わず頭をうなだれた。状況はあらぬ方向へ進んでいるようだ。ハテナは健気におまじないを続けている。シグマは手のひらを撫でられながら、なんとかこの状況を打開するすべを考えていた。 と、背後に気配。シグマは振り返る。空間が、水に落とした絵の具のように歪み、そのひずみから人影が現れた。波打つように滲んだ輪郭は、サングラスの少年をかたどった。年の頃は、10前後。つばつき帽子から、茶色のはねっ毛がはみだし、つりあがった眉とニヒルな笑みから、不敵なオーラがにじみ出ている。少年は、陽気な悪魔のような出で立ちの影(MZD曰く、神のオプション)に抱かれて、空間のひずみから現れた。ゆがみは、その背後で収縮し、消える。影は、片手に少年を抱え、片手に何故か買い物袋を持っていた。 「よーっす。いま帰ったぞ」 影の手から飛び降り、少年は右手を上げて言った。彼の名はMZD。こんな姿と態度だが、ポップンワールドの神である。シグマ、本日三度目のため息。ハテナよりも遅れてやってきて、この横柄な態度は何なんだ。シグマの声は、自然と不機嫌なものに変っていた。 「MZD。帰りが遅いぞ。これで、何度目になるか分かるか?」 「え。あー確か、まだ2ケタいってなかったよな?」 その瞬間、爆ぜるような音がした。シグマの髪を束ねていたコンコルドが、弾けた音だった。焦げたコンコルドは、硬い音を立て、床に落ちる。銀製の髪留めから解放された金の髪は、稲光のごとき輝きを放ち、重力に逆らい、うねり、スパークし、見るものを圧倒した。 半眼のシグマは、絶対零度の声で、指摘した。 「13回目だ」 MZDはわが身の危機を感じた。シグマはまさにマジギレ寸前である。下手な解答をしてしまった己の軽率さに、後悔すらした。それほど、女神の怒りは恐ろしい。 MZDのこめかみから冷や汗が流れる。オプションは、おろおろしている。シグマの目は、完全に据わっている。ハテナは、この期に及んで、いたいのいたいのと、おまじないを続けている。 女神のプレッシャーに気圧され、神がたじろいでいると、オプションが背後から、MZDに買い物袋を差し出した。MZDは思わぬ助け舟に、「でかした」と声に出さず唇で言い、買い物袋の中身を取り出した。それは、バニラの棒アイスの箱だった。 「まー、まー、そんなに怒るなって! ほら見ろよ、アイス買ってきてやったからさ。コンビニで、これ買ってて、遅れちまったんだよ!!」 「ほう……、甘味ごときで、この私が落とせるとでも思ったか?」 「……えーと、これ7本入りだぜ?」 「素数なら、なんでもいいわけではないぞ」 まさに一触即発。真夏の夕方、都心の住宅地にて、空気が凍てつかんばかりの、攻防が繰り広げられていた。もはや、MZDに打つ手無し。女神の怒りは、臨界点直前である。突如、そこへハテナの声が加わった。 ( しぐま、いたくなくなった? ) いきなり名指しをされたシグマは、急な問いかけに戸惑った。ハテナは、いまのいままで、ずっといたいのいたいのとんでいけを繰り返していたのだった。返答に困って口ごもるシグマを見て、MZDがニヒルな笑みを浮かべて言った。 「ああ、それね。今日、公園でさ、スゲー面白いことがあってよ〜」 MZD曰く、それは公園でハテナに木登りを教えていたときに起きたという。 二人で、公園の真ん中の、イチョウの大木を、てっぺんまで登り、辺りを見渡していたときのことだった。不意に、下方で小さな男の子が、転んでしまったらしい。男の子は、土で汚れた顔をあげ、火がついたように泣きだした。 ハテナが尋ねた。どうして、ないているの? 神が答えた。痛かったんだろうよ。 泣き声を聞きつけて、母親が、男の子の名を呼び、駆けつけた。男の子を抱き上げ、服や顔についた砂を優しく払いのける。母親は、小さな膝に、すり傷ができているのを見つけた。擦れた皮膚から血が滲んでいる。母親は、傷の周りをさすりながら、優しい声で言った。 いたいのいたいのとんでいけ 「でさ、ハテナが、あれ何あれ何って聞いてくるからよー。俺が親切に、教えてやったわけだ」 「それでまたくだらん事を吹き込んだわけか」 「そんな言い方ないだろ〜。俺の親切心をむげにすんなって」 肩をすくめながら、MZDは言った。シグマはそれをジト目で見ている。相変わらず、どこまで本気か分からない奴だ。シグマは弱弱しく息を吐いた。何やら、怒るのも疲れてしまった。焦げ目のついたコンコルドを拾い、髪をまとめながら、シグマは尋ねた。 「ところで、MZD。結局、このおまじないは、どういったものなんだ?」 「そうだなー。まあ、効き目は、言葉のとおりだよ。痛みがどこかに飛んでっちまうんだってさ」 「いったい、どこに飛んでいくというんだ」 「はは、お前もハテナと同じ質問するんだな。よく言われてるのは、ホントに空の彼方に飛んでくとか、術者が痛みを吸いとるとか、って感じだな。実のところ、俺もよく知らねーな」 「貴様でも分からんことがあるのだな、創造神」 「お前だって同じだろ、叡智の結晶。まあ、さすがのカミサマと言えど、人が作ったものに関しては、管轄外なんでね」 シグマは、そうか、と返事した。眉根を寄せて思案顔をしている。どうやら、腑に落ちないらしい。MZDは陽気に言った。 「まあ、そう小難しい顔すんなって。それより、どうだ? まだ、痛みはあるのか?」 そういえば、とシグマは左手に意識を集中する。時間の経過のせいか、MZDとの会話で気がまぎれたせいか、ハテナが撫で続けていたためか、切り傷の痛覚は麻痺し、撫でられる心地よさだけが残っていた。もう痛みはなかった。なぜかは分からない。けれど、おそらく、MZDが説明している間も、ハテナがずっとおまじないを続けていたからなのかもしれない。 肝心のおまじないの仕組みは、分からずじまいだが、どうやら成功したらしい。シグマはどうにも釈然としない思いだったが、とにかくハテナの努力は認めるべきだと、判断し、ねぎらいの言葉をかけることにした。 「ご苦労、ハテナ。もう痛みは無くなったようだ。感謝する」 ( ほんと? もう、いたくない? ) 「ああ、もう大丈夫だ。遅くまで出かけて、お腹が空いただろう。すぐ、夕飯にするから……」 ( まって ) 「――どうした?」 ( まだ、おまじない、おわってない。 ) その声は、思いのほか真剣であった。もう、痛みは消えたのだから、これで終わりではないのか。シグマの頭の片隅に、そんな疑問が浮かんだが、次の瞬間、吹き飛んだ。 いきなり、視界が黒くなった。何かに頭部を包まれたような気がした。数秒思考して、ハテナに抱きしめられたのだと理解する。相変わらず不思議な感触だ、とシグマは感想をいだいた。ハテナには、体温が無い。暖かくも冷たくも無い。まるで、自分と同じ体温の空気に、抱かれたような心地である。すべすべとかふわふわとかいった感触も無い。ハテナに触ろうと手を伸ばすと、それ以上手が進まないことしか分からない。触れても、そこに「在る」ことしか分からない感触なのだ。影法師に抱かれると、こんな感じなのだろう、とシグマは考えた。 ( ほーら。もう、いたくない。 ) 抱きしめながらハテナが言う。優しくおひさまの光のような声で。 同時に、後ろ頭を撫でられる感触。ハテナの手だ。 シグマは一瞬の内に悟る。きっと公園での母親も、こうしたのだろう。痛くなくなったと言う子供に、こうしてやったのだろう、と。 ( はい、おしまい。 ) そう言って、ハテナはシグマを解放する。 シグマは、唐突に理解した。このまじないは、理論や証明など不必要なのだ。相手の痛みがなくなるまで、つきっきりで傷のまわりを撫でてやる。やさしく言葉をかける。相手の状態を気遣う。ただひたすら、愛を示すことで、効果を得られるまじないなのだ。ハテナはそれを公園で学び、実践してみせたのだ。 シグマは、負傷していない方の手で、ハテナの頭を撫でてやった。そして、シグマ本人が驚くほど、慈愛に満ちた声が出た。 「ありがとう、ハテナ。おまえは、素晴らしいことを学んできたのだな」 ( えへへ ) 「そうだ。梨を剥いたから、みんなで食べよう。居間に持って行ってやるから、先に待ってるといい」 ( わーい。しぐま、ありがとう ) ハテナは、一目散に居間へ飛んでいった。その様子を、シグマは目を細めて見ていた。背後から、MZDが話しかけてきた。 「ところで、俺、梨よりメシ食いたいんだけど」 「抜かりない。もう作ってあるから、温めれば食べられるぞ」 「さすがじゃん。サンキューな、シグマ」 永遠の少年は、無邪気な笑顔で、礼を言った。女神は、胸中にくすぐったいものを感じた。剥きおえた梨を切り分けながら、不覚にも、こんな生活も悪くないと、頭の片隅で思ってしまった。 シグマが宮殿を離れて、MZDたちと人間界で暮らしているのにはわけがあった。MZDに、ハテナが有の世界に慣れるまで、共同生活をしてほしいと、頼まれたのだ。MZDもポップンパーティの打ち合わせなどで忙しく、一人でハテナの面倒を見るには限界があった。 それに、ハテナは無の世界を離れたばかりで、まだ情緒が安定していない。加えて、ハテナは膨大な力を有しており、万が一の時のため、それを抑えられるだけの実力者が必要だった。そこで、光の女神シグマに、白羽の矢が立ったのだ。 共同生活を始めてから日はまだ浅く、シグマは内心に不安を抱いていた。しかし、今日のハテナの様子を見て、シグマは確信した。 「順調じゃないか、MZD。ハテナは、お前の期待どおり、世界のあらゆるものを知りたいと望み、そして自らの糧にしている。近いうちに、お前のサポート役も務まるだろうよ」 きっと、ハテナはMZDが望んだ成長を遂げるだろう。確かに今までのハテナには、なんにもなかった。しかし空っぽだからこそ、そこに詰めこめる可能性は、無限に等しいのだ。 シグマの希望に満ちた言葉に対し、MZDは気乗りしない口調でぞんざいに返した。 「あー、そうだといいんだけどな」 「なんだ、その口振りは。なにか気がかりでもあるのか?」 「いや、ハテナにおまじないを教えた直後のことなんだけど……」 MZDは言うか言うまいか、躊躇する。 しかし、しばらく迷った結果、開口した。 「ハテナに、おまじないの練習したいって言われてさ、 木のてっぺんから、突き落とされたんだよね、俺」 あれは普通に痛かったわ、とMZDはしみじみと言う。シグマは絶句した。そして、前言を撤回し、決意を再び新たにした。ハテナには、しつけ以前に、やっていいことと、やってはいけないことを教える必要があるようだ。それも早急に。 一方、居間では、ハテナは保護者らの思惑など露知らず、星のひとに向かって話しかけていた。 あのね、ぼく おまじない おぼえたんだよ。
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