「それ、名前あんのか?」 土気色した長い指が、エッダを指差した。スモークの奇問に、ギターのチューニングをしていたエッダが、ぎくりと身を強張らせる。エッダは、突然のことに動揺したものの、ふとその指先が、自分よりも、少し左にずれていることに気がつく。エッダは、ゆっくりと首を巡らせ、人差し指の延長線をたどった。左斜め後方に、羽目殺しの窓があった。 窓の外は、吹雪。轟轟とうなりをあげて、狂風と雪とが、山の空気をない交ぜにする。山小屋の周りには、背高のっぽの針葉樹が、群れとなり、立ち並んでいる。だが、雪嵐のため影すら見えない。ガラス越しの、氷雪激しく乱れ飛ぶ様に、エッダが茫然と見蕩れる。無意識に、ギターのネックを、6本の弦ごと握り締める。日々悪化していくしもやけで、赤紫色の発疹にまみれた手と指。自己世界に浸りかけるエッダに、スモークが声をかけた。若干、苛立たしげな声だった。 「違う。そっちじゃない。これだ、これ」 スモークが、改めて指差したのは、己の左耳だった。エッダはつられて、金色の髪に隠れた自分の耳を摩ってみるが、スモークにさらに訂正された。 「そうじゃなくて、その……、ぶら下がってる……」 黒茶色の髪をかきまぜながら、スモークは途切れ途切れに言う。のどまで出掛かっている言葉を、必死で探っている。エッダは、ようやく察した。自分の左耳から手を離し、その横にぶら下がっている、枯葉と枯れ枝のかたまりを、手で包むように触れた。そして、たずねるように指摘した。 「……みのむし?」 「そう、それだ! 蓑虫だ!」 膝頭を叩いて、スモークが大声で言った。再び、身を竦ませるエッダだったが、その後、わずかに微笑する。おかしな人だな、とエッダは思った。孤高の天才ピアニストと呼ばれている彼は、かなりの博識で、音楽の知識はもちろん、突然、亜空間の入り口とか、ブラックホールの定義とか、高尚な話を始めて、学に乏しいエッダを困らせることも多々ある。かと思いきや、先ほどの事例のように、簡単な言葉が出てこないということも、それなりにある。 すごくアンバランスな人なんだな、とエッダは勝手に解釈していた。口にしたら、なんとなく怒られそうで、言ったことはないけれど。枯れ枝の感触を指で楽しみながら、エッダは問う。 「……みのむしが、どうかしたんですか?」 「いや、だから名前があるのか、聞いたんだよ」 「みのむしの、名前ですか?」 「そう、それ」 「……特に、ないです」 その答えを聞くと、スモークは、何だ無いのか、と小声で言い、カップの底に残ったココアを飲み干した。テーブルの上の左手は、木の板を鍵盤代わりに、演奏を続けている。器用な人だな、とエッダは思う。それでいて、ものすごく不器用な人だとも、エッダは知っている。 スモークは、からになったマグカップをテーブルに置いた。そして、煙草の吸いすぎで、枯れた声で、訊ねた。 「じゃ、俺がつけてもいいか?」 「え。」 エッダの思考と、蓑虫の蓑を撫でていた指の動きが、静止する。スモークは、顎鬚をいじりながら、名前を熟考している。閃いたように、言った。 「パストラーレ、なんかどうだ?」 「……あの、」 「あとは、ゲハイムニスフォルとか……」 「その、」 「いや、この際アゴラフォビアも捨てがたい」 「ちょっと、待ってください」 指折り数えながら、名前の候補を挙げていくスモークを、エッダが制した。訝しげに顔を上げるスモークに、いろいろ突っ込みたかったが、とりあえず、エッダは疑問を投げかけた。 「なんで、蓑虫に名前を?」 「なんでって、普通につけないか? 名前」 「いや、普通につけませんよ」 「そうか? おかしな奴だな、おまえ」 それはこっちの台詞です、とまでは言い返せず、口ごもるエッダ。スモークは、続けて説明する。 「俺は付けるぞ、名前。ピアノだって、ライターだって、万年筆だって、名前で呼んでる。愛着なんて、安易な感情でやってるんじゃない。名前を付けると、道具や物質という境界を越えて、それらが、限りなく俺に近い存在になるんだ。 そもそも、道具っていうのは、人体の延長線だ。楽器は、歌声の延長。車は、足の延長。パソコンは、頭脳の延長。だから俺は、ピアノを弾くときは、ピアノと俺とに、境界線を感じない。指とピアノが結合して、だんだん、俺自身が旋律を奏でている感覚になる。その状態のときは、素晴らしい旋律が、洪水のように頭に浮かんでくるし、ピアノも最高の音を奏でている。 わかるか? 名前を付けるという行為は、自身の体と、それ以外の事象物象との境界線を消していく、行為なんだよ。言い換えれば、自分との関わりを、作るための行為なんだ」 畳み掛けるように、語られる。エッダは、半ば眩暈を感じていた。天才ピアニストの、天才の名はダテじゃない。常人と天才は、本当に別種の生き物なんだと、思い知らされる。思考が全然追いつかなかったが、エッダは唯一抱いた感想を、率直に述べた。 「……みのむしは、道具じゃないです」 「――まあ、そうだな。だが、道具じゃないにしろ、普通名前つけたりしないか? なんていうか、ペットとかにつけるような感覚で……」 「別にペットじゃないし」 自分に向けられる全ての意思と感情を、なぎ払うようにエッダは言い放つ。さすがのスモークも、押し黙った。たまにこいつは、突然のように、氷塊よりも冷たく、ツララよりも鋭い意思を見せることがある。こいつが、自身の内面に抱え込んでいる、なにかギラギラしたものが、垣間見える瞬間。常人とは、比べ物にならないほど、桁違いの拒絶。 戦慄するスモーク。おもむろにマグカップを手に取ったが、すでに中身が空っぽだったことを思い出し、気まずげにカップを、テーブルに戻した。少し間をおいてから、スモークは質問する。 「その蓑虫、いつごろから、そこにぶら下がっているんだ?」 「――三年前」 「は? 三年って、おまえ。蓑虫って、そんなに長生きだったか?」 「まさか。とっくに死んでると思いますよ。確認したことないけど」 「…………」 「おれがいつも吹雪の中で演奏しているから、蓑の中で凍え死んだんだと思います。みのむしの蓑も、寒さを防ぐためとはいえ、極寒の中じゃ、無意味なんです。簡単に死ぬんです」 エッダは、蓑虫を撫でながら、淡々と言う。蓑虫はされるがままで、抵抗しない。ぴくりとも動かない。中を見て確認するまでもない。どうせ死んでるに決まってる。視線は、自然と床へ落ち、自分のつま先を見つめていた。スモークは、うつむくエッダを見て言った。 「アゴラフォビアで、決まりだな」 「……は?」 「精神科用語で、パニック障害の症状の一つを意味する言葉だ。広場恐怖、外出恐怖、空間恐怖とも言われている。人通りの多いところを避けたり、電車やバスなどの乗り物にも乗れないようになったりする。他にも数え切れないくらい、事例があるが、総じて、自分の安心できる場所から離れるときに、強い恐怖感を覚える症状のことさ。どうだ? 三年も出てこない蓑虫に、ぴったりな名前じゃないか?」 「……みのむしは死んでるんですよ」 「知るか。第一、生死の確認はしてないって自分で言っただろ、おまえ。もしかしたら、冬眠してるだけかもしれないじゃないか。それに、たとえ死んでたとしても、俺が蓑虫を命名することを、妨げる理由にならねえ」 エッダは肩を落とす。この人は、一体なにを言ってるんだ。そんなに、このみのむしに名前をつけたいのか。いったい何のために。すごく馬鹿げてる。エッダの思いも他所に、スモークは蓑虫を指差し、高らかに宣言した。 「よーし! その蓑虫は、今日からアゴラフォビアと名乗ることを命ずる!」 「勝手に命じないでください。そんな長ったらしい名前、嫌です。呼びづらいし」 「なんでだよ、良い名前じゃないか。ネガティブで、おまえ好みだと思ったんだが」 (……この人、すごく失礼だ) 「何だ? 言いたいことがあるなら、言ったらどうだ?」 「……名前ぐらい、自分でつけます」 そう言ってから、エッダはしまった、と思った。スモークが薄笑いを浮かべながら、箱から煙草を出してくわえた。火はつけない。煙草の匂いは嫌いだ、とエッダが言ったからだ。上機嫌に、スモークが言った。 「なら、自分でつけてやんな。死んでると決め付けてても、角から外さなかったくらいに、愛着あるんだろ?」 「……」 「数少ない友達なら、名前ぐらい、くれてやったらどうだ?」 エッダは、不服な顔をしていた。蓑虫に、もう一度触れる。全然、動かないけど、なぜだか、かすかに温かみを感じた。しもやけのせいで、手の感覚が狂ってるのかもしれない。そんなことも思ったが、もはやどうでもよかった。スモークの台詞は、的中していた。蓑虫のことは、三年前からの付き合い。親友のように思っていた。 エッダは細く息を吸い込んだ。難しい言葉は知らないけれど、自分の知っている言葉で、名前をつけようと思った。 自分のつま先を見つめながら、しばらく考えた後、エッダは蓑虫に、こなゆき、と名づけた。
お題 → 放棄しきれない命名権
『選択式お題 色は匂えど散りぬるを』 配布元>>as far as I know
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