「いつまで、そんなことを続けるつもりだい?」 正面から声。手の中のマグカップに落としていた視線を、僕は、ゆっくり上向けていく。 白いカップに満ちる、琥珀色のホットレモネードの液面。そこから、焦点が上昇し、投げ出された自分の足、青いカーペット、白い壁、本棚、窓、机などが、視界に入る。そして、僕の正面には、壁を背もたれにして、床に直接、座っている少年がいた。ここは、一軒家の二階。ベランダがある部屋。窓から、晴れた夜空が見える。月は見えない。 僕の目の前の少年は、無表情のまま、僕を見つめていた。質問の返答を待っているようだが、僕は、すぐには答えずに、彼の姿を眺めていた。 彼の黒い髪は、丁寧に櫛がかかっており、前髪は、きれいに切りそろえられていた。おもむろに、僕は自分の前髪を、指でつまんでみる。だいぶ、伸びたかもしれない。前髪をいじる僕を、彼は、目をそらさず見つめていた。僕は、前髪越しに、彼を見ていた。 彼は、黒色の半そでのシャツと、クリーム色のズボンを着ていた。僕は、白のワイシャツと、黒のズボンを着ていた。彼のお気に入りの帽子は、洋箪笥の上に、鎮座しており、壁によりかかって床に座る僕たちと、僕の隣でねむっている猫を、見下ろしている。 彼は、今しがた読んでいた文庫本を、閉じた。カバーが外された背表紙には、細い字で、『星の王子さま』と印字されていた。僕は、マグカップを床に置き、片膝を立てて座り直してから、ようやく口を開いた。僕の唇は、自然と笑みを形作る。 「そんなことって、どんなことかな? 具体的に言ってくれないと、僕も返答に困る」 僕の切りかえしに、彼は小さくため息をついた。質問しているのは、こっちなのに、とでも言いたげな表情。彼も、閉じた文庫本を、床に置いた。そして、答えた。 「いつまでも家に帰らず、ぶらぶらと放浪していること。他人と接触することを極力避け、自分ひとりで生きようとすること。話し相手が、ボクと猫しかいないこと。世界を毛嫌いし続けること。本当の名前を捨てて、moon_childとして、生きようとあがくこと。まだまだあるけど、ざっとこんな感じかな」 恐ろしいことに、彼は、この台詞の間に、息継ぎを一度もしなかったのだ。言い終わった直後、彼は、長いため息をついた。 僕は、隣の猫に、目線を落とした。猫は、眠っている間も、ときおり鼻の頭やまぶたがピクリと動く。猫も夢を見るのかもしれない。猫の前には、ミルクを注がれた平たい皿がある。彼が出したものだが、一口もなめた痕跡はなかった。 僕は、相変わらず笑みを浮かべたまま、直情的に感想を言う。 「ずいぶんと、ズバズバ言ってくれるね。言ってて気持ちよかった?」 「まさか。ボクの言葉なんか、キミの本心に届くわけないって、知ってるからね」 半ば諦観すら感じる彼の言葉に、僕は満足げに笑み、うなづいた。 事実、世界はその通りに動いている。僕と彼は、今は同じ空間にいて、こうして言葉を交わしているけれど、僕も彼も、紛れも無い他人であり、別固体なんだ。 僕は、誰も理解しないし、ゆえに、誰も、僕を理解しない。これが世界。そして、人間は、自分を含む、全ての人間を理解するなんて、絶対に不可能。世界なんて、こんなもんさ。 僕は、立てた片膝に、肘を乗せ、頬杖をつく。そして、笑顔のままで言った。 「さて、君の質問の答えだけど、僕は、当分、そういうことをやめるつもりはないよ。僕が世界を嫌いなことは、依然として事実だし、その考えを改めるつもりも、無い。世界とのかくれんぼは、決して終わらない。僕が僕で在り続けるかぎり、決してだ」 彼は、僕を見ていた。眉根をよせ、下唇を少し噛み、黒の瞳は、僕をとらえて放さない。しかし、僕は、彼がなにを感じているかなんて、分からない。僕も彼も、別の人間だから。彼は、僕を真っ直ぐ見つめたまま、掠れた声で、尋ねた。 「キミにとって、世界って何?」 僕は、はっきりと言った。 「僕以外の全てさ」 レモネードが冷めたから、帰ることにした。 彼は、僕が初めて部屋に来たとき以来、僕にホットレモネードを、猫にはミルクをふるまってくれるのだれど、僕らは、それらに口をつけたことは一切無い。しばし、雑談を交わして、レモネードが冷める頃には、帰ることにする。帰るときは、来たときと同じように、ベランダから出るのだ。 ベランダの窓を開けると、夜気が部屋に入り込んだ。清清しいほど冷たい空気。ひどく心地よい夜風は、部屋の天井に飾ってある、星のモビールを揺らめかした。彼が、背を向けた僕に話しかけた。 「キミは、キミ以外の全てが嫌いなんだよね?」 「そうだよ」 「――ボクのことも、嫌いなんだよね?」 その声は、震えているように聞こえた。夜気が肌寒かったせいか、それとも、彼にしか分からない感情が起因しているのか、僕には分からないし、分かりたいとも思わなかった。僕は、夜の空気を吸い込んでから、答えた。 「――そうだよ」 夜風が、僕の頬を撫でた。足元に、やわらかい感触。猫だった。ようやく目覚めたらしい。僕は、猫と一緒に、ベランダに足を踏み入れる。後ろ手で、窓ガラスを閉めようとしたとき、彼が声をかけた。同時に、床のきしむ音、衣擦れの音も聞こえたから、たぶん彼は、立ち上がったんだと思う。 「言っておくけど、ボクもキミが嫌いだよ。大好きな読書の時間は邪魔されるし、つまらない話を長々と聞かされるし、猫の毛とか床に落ちて部屋が汚れるし、君のよくわからない笑顔はもっと嫌いだし、毎回毎回うんざりするんだよ」 まくし立てるように、彼は言った。僕は、動かない。振り返るつもりもないから、彼の表情なんか分からない。そして、僕自身の表情も、分からない。猫が、僕に向かって、小さく鳴いた。 しかし、後方から、「だけど」と、猫よりも小さな声が聞こえた。 「キミに、深く考えて欲しいことがあるんだ。ボクが、キミらが飲みもしないのを分かってて、毎回レモネードとミルクを用意する訳を。夜に突然やってくるキミを、一度も追い返したりしなかったことを。そして、キミは自分の考えを決して曲げる人間ではないと、知っていても、ボクが、キミの生き方に口出しをし続けていることを」 真剣な声は、まるで背中を貫通するようで、僕は、動けずにいた。このまま、窓を閉めて、彼を放っておいて、夜の街に出ることは、簡単にできる。けれど、僕は動けない。いったい何だ。僕の行動を妨げる、この得体の知れない力は。 再び、後方から、声がする。 「キミが、どれだけ世界を嫌おうと、構わない。キミが、どれだけ、自分とその他のものを隔絶しようとも、構わない。けれど、これだけは忘れないで。たとえ世界が何と言おうとも、ボクは、絶対にキミを見捨てないから」 僕は、振り返らなかった。何も言わずに、窓を閉めた。いつもは「おやすみ」と別れを告げるけど、今日はそれすら言わなかった。何かを言ったら、思いもよらない何かが溢れてきそうだったから。 ベランダに出しておいた靴を履き、隣に生えている、金木犀の木から地面に降りた。猫とともに道路に出て、どこへともなく歩き始めた。歩みながら、空を見上げた。満月が、煌々と輝いていた。 「あの日と同じだ」 夜空を見上げながら、僕は呟いた。僕と彼が初めて出会った日も、満月だった。その日僕は、彼にmoon_childと名乗ったけれど、彼は自分の名を名乗ってくれなかった。 キミが本当の名前を教えてくれたら、僕の名前も教えてあげるよ。 彼は、呆れた顔をして、そう言ったのだ。 僕は、彼に本当の名前を教えるつもりはないから、今後も、彼の名を知ることもないだろう。僕は、夜空の下で、僕は歩き続ける。瞬く星に見惚れていると、僕はある違和感を覚えた。足元を、見る。足元を、見回す。辺りを、見回す。散々首を巡らした後、僕は、違和感の正体を認識した。 猫がいなくなっていった。 こんなことは、初めてだった。
|